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  映像研究

よみかえることをほのめかす。

 
・5月18日(火)。とうとうその日がやってきてしまった。とそのように記せばいったいいつからの「とうとう」なのか。チケットを手にしてから1ヶ月の「とうとう」でも、コンサートツアーをやるということを知ってから3ヶ月の「とうとう」でもあり、はたまたそのアーティストがポップ・ミュージックを定期的にリリースしていた10年前からの「とうとう」でもある。そして個人的には『レヴュー96』のあの春の横浜アリーナ以来なのだから、じゅ、14年!?ともかく時間は過ぎる。いろいろなことが起こる。場所を移動し、物語が紡がれ、そうして音楽が演奏される。そうして「とうとう」この日がやってきたのだ。ちなみに自分のチケット獲得は超正攻法のチケットぴあ一般予約(電話)にて。10時1分に繋がった電話で辛うじて1枚を購入することができたのだが、ものすごくわかりやすく会場の一番後ろの列だったのだから、本当に去年の年末に眼鏡をつくっておいてよかったと思う。あの冬の吉祥寺で、ふと「近いうちに眼鏡が必要なことがあるよ」という声が聞こえたような聞こえないような、というスピリチュアル因果。



・それで今日は一日休みだったのだから、そわそわしながらとりあえず昼過ぎに町田へ。いきなり相模大野に行ってしまうと呼吸が乱れて高山病のような症状を引き起こしそうだったので、高度順応に近いプロセスとしての町田。とくに買うつもりのない古着を見たりして荒ぶる気持ちを鎮めつつ相模大野グリーンホールへ。駅から会場までの間に「すいませんちょっと祈らせて下さいの人」みたいなムードの「すいません私の方が行くべきだと思うんですけど」みたいな人がびっしりいたらどうしよう、と思っていたのだけれどもそういう人はいなかった。そういう人への対応として「ドゥワチャの切り抜き」とか「エンゼルの鍵」とか「鼻につけるスポンジ」とかそういうアイテムを持っていくことも正直少し考えたことを記しておく。それはともかくしかし実際のところ実際にボーダー率は高し。切りすぎた前髪。そういう何かのディテールが集まった結果ある種の「アウラ」のようなものが漂っていたのか、開場を待つ列の横を駆け抜けていく制服の小学生の集団は「何?これ?皇室?首相?」と騒いでいた。遠からず。



・それでいろいろあって開場。そして開演。いろいろな音楽が演奏される。いろいろな音楽が演奏されて終演。汗をかいた。たまたま通路を挟んで隣の席が親子連れだったのだが、その小学生は本当に良く教育されていた。イントロが始まった瞬間に母親の顔を見て「わぁ」というようなかんじで、ちゃんとすべての曲を知っていたようなのだった。すごいな。しかしまたその小学生は思ったことだろう。「あぁ、一見大人に見えている人たちも、なにかのたがが外れるとこんなにも阿呆のように踊ったり歌ったりしてしまうのだな」と。そういう体験もまぁきっと教育だ。このように誰が読んでいるともしれない/誰もが目にする可能性のある備忘録なのだから、内容に関しては詳しく書かないというのが、何というかフェアなのではないかと思ったりしないこともない。それでなくても全国様々な開場のチケットを持っている友人たちがいて、それぞれの「その日」が来るまでは何も話してくれるな、というのがこの界隈(ってなんだ?)の暗黙のルールになっているのだし(会わないでおこうという人もいる)、すべての人は新鮮な気持ちで音楽を聴く権利を有している。そしてその新鮮な気持ちの中で「驚く」ということが特に大事なのかもしれないなと思う。こと小沢健二というアーティストに関しては。



・それで思うことはある。「1・2・3・4」ではなく「ひ、ふ、み、よ」と声に出すように記すこと。プログラム言語である横書きの縦スクロールではなくて、巻物のような縦書きの横スクロールでインフォメーションすること。そういう考え方というか姿勢のようなものが、音楽や言葉の細部にまで表現されていたということを思った。そのことが理解できて、そして直接に感じられた、何よりそのことが良かったというのが率直な感想で、そういう意味において、毎回ワクワクしながら読み続けていた「うさぎ!」や、本当にスリリングな体験としての「おばさんたちが案内する未来の世界」とも同じような何かが残る。そしてその「残る」ということ、ある表現を受け取って、そのことを覚えたり忘れたりしながら、また明日からは普通の生活を送る、というような「関係」について、そのことが繰り返されているメッセージのひとつでもあり、メッセージが繰り返されている理由でもあるのだと思う。



・たしか「ひふみよ」のサイトでは、このコンサートツアーを「小さな舟」と表現していたと記憶しているのだけど、たとえばそういう表現は、たぶん謙遜のようなものではなくて(そういう部分もあるのかもしれないですけれども)、その進んでいる舟の周りには、その舟を取り囲む環境でもあり、ある意味では脅威でもあるような広大な海が広がっているという認識から思い浮かべたイメージなのではないかと思った。あるいはまた歌詞の中でも繰り返し使われる「光」「明かり」のような言葉、それはあくまでも一瞬の/限られた場所のものでしかなくて、その周りには圧倒的な闇が、ごく自然に存在しているということ。その関係性。その関係性を見据えながら、その間で表現するということについて特に考えてしまう。ちなみに音楽はもちろんのこと、今回のコンサートは「照明」も印象深いなぁという感想。シンプルだけれども演奏している人の輪郭がくっきり見えて、そのことで音もクリアに伝わってくるような印象。闇の中で一瞬明るい光が灯ってまた消えていく。あの場所はそういう場所だったのだと思う。