・山へ。山に登るのはいつ以来ですか。日記を辿ってみてもわからない。忘れたことを思い出すことも面白いと思った。何かを思い出すことについて。言葉や形をはっきりと思い出すのではなく、匂いや湿度や疲労を通じて或る感覚をぼんやりと思い出すことも貴重だと思った。最後に登ったのは「おおよそ10年前」だと思っていたけれども、正確には8年くらいかもしれない。記憶だけでは足りずメールも遡ってみたが、そもそも何を持っていけば良いのかわからない。正解はない。レベル1から。そう思って登山口に立つ。山道を歩いてみる。アスファルトを歩いたり走ったりすることとは明らかに異なる質が歩くたびにある。
・「新しさ」と、山に登っていた頃にはいつも考えていた。「新しい」「新しさ」ということ(ことば)には特別な意味があり、その手がかりのいくつかは、具体的に山を歩くことや歩きながら色々なものを見ることから獲得されて、育っていったのだったと思う。あるいは山に登る以外の時間と山に登る時間を往復すること、往復を繰り返すことから、育っていったのかもしれなかった。山に登ることで学ぶことは多くある。しかしもっとも底にあるものは、知識ではなく、技能でもなく、知恵でも、身体能力でもない。だから「これ」と指すことのできない不確かなものだったように思う。
・友人たちとのパーティーだから、そうした何か、そうした感じは、俗で卑近な会話をしている時にはあまり意識されない。けれども確かに共有されている。育ちゆくことを支え合っている。山頂から山部の友人たちにメッセージを送ったならば、それに対して「山の感じを思い出すね」と返事が来る。やまびこのように返ってくるあるいは響く。響き合う。
・そしてどれほど騒がしいパーティーのような山登りだとしても、ひとりひとりの内には静かな時間がある。歩く運動と見る知覚が身体にある準備をさせる(と言ってみてしかし言葉で言い当てることは全然重要ではない)。見るものの多くは植物と鉱物で、ともにそれぞれの時間を放射してくる。それを受け取っている。いまこの瞬間も変化し続けているものが輪郭なく接している。混ざるとも溶けるとも言い切れない。関係している。その関係は、存在は、しかし人が見るために存在しているのではなかった。人が見るために存在しているのではないということに驚いてもいい。情報から、設計から、離れた存在が溢れる。
・人が見るために存在しているのではない事物が姿を顕にしていることの不思議。その不思議に立ち止まってもいい。見ることもまして写すことも大したことではない。曇って朝晩は少し小雨が降って、湿度はそれほどまでには感じないが、霧に包まれたような感じもある。時々雲の隙間から光が差す。その光が植物や鉱物や土を照らす。その現象自体が写真の焦点に似ている。影が支持体のように面を形成する。時々写真にも写した。