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  映像研究

どちらかというとあまりおもしろくない、がはじまった。

 
・2010年も早くも中盤にさしかかりつつある今日この頃。例えば日曜日の朝に年に何度もない出張の新幹線の中でBRUTUSの「ポップカルチャーの教科書」を熟読する程度には、日々定例業務の合間に(あるいはその逆に)可能な限りカルチュラルをスタディーズしようとしているのだけれども、そしてだからその帰りの電車では、東京郊外の実家より拝借した村上春樹1Q84』のBOOK3を読んだりもしているのだけれども、その感想として「どちらかというとあまりおもしろくない」と思った。BOOK1とBOOK2はなかなかおもしろく読んでいたのだから、どうしてだろうかと思うが、そしてその理由はいろいろ考えられると思うのだが、とりあえずあのスピリチュアルな肯定感/複数の世界を行き来するような万能感にちょっと居心地が悪くなったのかもしれない。スパゲッティの茹で加減とかジョギングしている時のからだの動きだとかを、ただただと描写してくれたらよかったのだろうかとも思う。BOOK4が出たならばそれで解消される部分もあるのだろうか。あるいは。



・それで先週末には、業務上の必然的な理由から、と自分に言い聞かせてDVDをレンタルしてアニメーション映画『サマーウォーズ』という作品を観賞してみた。前作の『時をかける少女』も、話題になったかなり後なってようやく見てみて、これはなかなかおもしろいと思い、そして『サマーウォーズ』もある程度楽しめたのだが、いやしかし「おもしろい」と思ったかというと、難しい。これもまた率直に(率直にしか表現できないということだけれども)あまりおもしろいと思えなかったのは、結局あれが何と何の戦いだったのかよく覚えていられないような(それは個人的な読み取りの能力の問題かもしれないですが)設定や、その戦いが結局身体性を伴わないということが理由なのだと思う。ストーリーにおいてネットワークが重要な役割が果たすようなことも、現代の作品であるならば当然のことであるというのは理解できるものの、やっぱりそれを積極的に受け取ろうという気持ちになれないのは……それはまぁもちろん完全に自分の方にその要因があるということなのか。どうなのか。



DOMMUNEを始め各種USTREAMの映像を見ていると、現在の東京では実に様々なイベントが開催されていることがわかる。それを渋谷に限定しただけでも、チェルフィッチュの舞台と、なんとかラウンジという展覧会と、宮下公園がナイキパークになることに反対する運動、などが行われており、そしてそれらのイベントに何か共通の意識を読み取るような(?)ことを話していたりするのも現在だ。そしてそれらはおもしろいのか、どうなのか。そしてしかし自分としてはその中の宮下公園の問題を「おもしろい/おもしろくない」で話すこと自体、何か違和感があるのは、自分がそのトピックスを「公共性のあるべきかたち」のような問題設定として、倫理的な問題として捉えているからだ。であるならば、全く違うことである(と自分には思われる)トピックスであるものの、ある意味では現代の生活、その状況や展望を示していると考えられている演劇や展覧会を「おもしろい/おもしろくない」で判断するということはどういうことなのだろうか。それを積極的に「おもしろい/おもしろくない」と言おうとする気持ちと、それに躊躇するような気持ちもある現在。



・これはまったく自分の心情の備忘録として(だからまとまりはないのですけれども)「あらゆるものがおもしろい」というモードがどんどん過去のものになりつつあるということを思い知らされる日々であると感じる。「おもしろいと言うこと」は「とりあえずブックマークしておく」ようなもので、そこには好きも嫌いもない。そして倫理もない、と思ったけれども厳密に考えてみるならば、その作法(好き/嫌いを留保してブックマーク=興味の存在だけを示す)こそが倫理だった、というのが正確なところだろうか。そうして今どうしようもなく呼び出されそうな「倫理性」は、自分の場合「からだ」に準拠しているようなのだ。そしてそれを「有限性」へと展開する。



・生活のさまざまな場面にコンピュータ・ネットワークが偏在していること、その端末をほとんど身体に埋め込んでいるような状態、そしてそれがあらゆる判断の方法にも影響すること。そのことを「おもしろい」と判断する、その方法を止めること。そのことはそう記すことができるほど簡単なことではないということが想像できる。それを止めようと考えることは完全に「勘」だけれども、その勘は「おもしろくない」ことの先に倫理的な問題点(「これはあるべきものではない」)を見つけようとするような意識だ。あるものが複製されるということからコピーされるということへの変化、そしてそこから数歩進んで、実体はないが全く同じ価値を持つ「物」が存在するこということをあたりまえだと思うことへ。「物」がひとつでもあり、ひとつでなくもあるという意識(無意識にも)、それはもともとコンピュータのメタファ、ほとんど冗談のような考え方ではなかったのか。であるならばその冗談への対応は笑うことしかないのかといえば、それはちょっと怠慢というか、飽きているのに新しいことを考えないのはそれこそが本当に「おもしろくない」のではないかと思う。



・だから「物」はひとつである/でしかない、ということを考え、そのためにその「物」をじっと見るということからしか、新しい何かは始まらないように思う。たとえば「人はどれだけの衣服があれば生きていけるのか」というようなことを考えたり「一足の靴を直しながら履きつづけること」ということの意味を考えて、その先に突破するポイントを探してみたい。ひとつである「物」はその物を使う(「所有する」というのは少しニュアンスが違う)自分と特別な関係を結ぶのだということ。バックパッキングの機能的でほとんど実験的とも言える衣食住の考え方や、ここしばらく気になっている坂口恭平という人の「セルフビルド」的な価値観の根拠となる考え方にも、その「物と人との関係」はあるのではないか。そしてそれこそがコンピュータ、あるいはネットワークという環境に対して理性を働かせる回路なのではかいかとも思うのですけれども、どうだろう。もともと「何故いま『クウネル』なのか?」というテーマを自分に課して、そうしてそのことから何か書きかけたはずなのだったが、全然違う入口を設定したことによって、全然違うルートを経由して、そこそこの地点にたどり着いた。