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  映像研究

2014年の夏の真ん中

 
・2014年8月5日(火)の午前10時。若葉台駅前のコーヒー店にて。いま、ここが2014年の夏の真ん中だと思った。朝から暑い。からだはこの数週間ですっかり暑いことに慣れたのだから、むしろ容赦ない冷房から身を守るために適切なシャツあるいはカーディガンを羽織る。そして水分を摂取する。カフェインも必要とする。何よりも睡眠が大切です。捨てられずに冷凍庫に入れられている保冷剤を首に巻いて寝る。頭寒&足熱は冷静と情熱を保ちながら健康でいるためのあいことば。11時くらいには就寝したい。


・この期間ひさしぶりに山に登りたいと、山に登ろうとしていたけれども、いろいろなタイミングが合わず、結局山には登らなかった。ひと夏に3回から4回山に登っていた頃があった。いつか自分にはまたその「頃」が、「頃あい」がやってくるのかどうなのか。修験道というものに一度行ってみたかった自分は、しかし夏の季節はどうしたって労働で手一杯になってしまうから、それを諦めた。それを諦めながら、半ば冗談として日々の労働を修験道として捉えようとしてみた。いま、そのような気持ちをもう一度思い出している。自分ではない人にとっては「労働」で「業務」でしかない日々を、この夏をひとつのロングトレイルと考えること。


・テントの中で、すぐに寝てしまえば良いものを、ザックから文庫本など取り出し、それを読む。大抵はあっさりと眠りに落ちるけれども、時々集中して、他のどこでも、いつでも、考えられなかったような事柄が、頭に浮かぶこともある。あったのか。しかしそれさえも寝てしまえばすっかり忘れてしまうから、「何かを思った」という感触だけが残る。その感触を手がかりにするしかない。そしてたとえばその「何かを思った」という感触に、たまたまタイミングがあって観に行った東京都写真美術館の展覧会「岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべて」が接続される。全然時間が足りなかったからもう一度観に行こう。別のフロアでやっていたフィオナ・タンという人の展示も素晴らしかったけれども、この岡村昭彦という人の写真の展示は、きっともう少し時間をかけて見なければいけない何かだと思った。


・「作品」と名指す必要がないようなイメージを創り出す作業を、どうしたら理解することができるか。いや、あるいはそれはもう既に理解されている。だからその、「作品」と名指す必要がないようなイメージを創り出す作業と、どうやって近づくことができるか、と考える。「イメージを創り出す作業」を「頭の中にあるイメージを、他の人にも見えるようにすることです」ときっぱり言うこともできない。まして「『何を表現するか』と『どのように表現するか』のかけ算です」というようなことは全然言えない。そしてイメージを創り出すことは、コミュニケーションではない。たとえば「言葉を書くことはすべて『コミュニケーション』です」というような全くほんとうではないと思えるようなことさえ言われる。図像も言葉も、あらゆるイメージはコミュニケーションとは関係なく存在する、と仮に言ってみて。