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  映像研究

スペクタクルのかたちとかたちを持たないスペクタクル

 
・晴れていても決して暖かくない朝に冬の到来を感じながら溜まってしまっていた洗濯をする。週間予報をみて明日の冷たい雨を想像して震えながら石油ストーブの準備は万端だ。それにしても寒さが本当に恐ろしい今日この頃。山に登るようになって気がついたのは、動物にとって何もしなくても暖かいものは「太陽」と「温泉」だけだということだ。そう考えたならば「テレビや雑誌で温泉の特集って安易だよね」とか言っちゃあ駄目なんじゃないか、もっともっと「温泉」に敬意を払ってもちょうどいいくらいなんじゃないかという気すらしてくる。ちなみに「太陽」を神とする宗教は恐らくあるのでしょうが、「温泉」を神とする宗教はないのでしょうか。「湯治」はややそれに似ている気がしないでもないけれども、それはまた別件か。


・それはさておき、送るべきメールを送ったりパスタを茹でて食したりしたのち外出する。中央ラインを上り久しぶりの荻窪タウンで下車。久しぶりの珈琲豆店で豆を購入して、久しぶりでもない「ささま書店」で数冊の書籍を購入。そろそろ某カレー店の本棚型古書店に晩秋の書籍をお届けしたくもある。荻窪から東京メトロ丸の内線と銀座線を乗り継ぐ。ちなみに今読んでいる書籍は前回の備忘録から早速購入してみた大澤真幸という人の『逆接の民主主義 ――格闘する思想 (角川oneテーマ21)』という本ですが、半分くらい読んでみたもののなんだかちょっと凄いことになっている。読み終わったら何だかの感想を書いてみようか、いやしかし書けるのか不明。そして東京メトロを乗りついだ終着駅はちょうど一週間ぶりの浅草へ。

アサヒ・アート・フェスティバル2009
AAF学校「メディアと芸術」構成:藤井光
【会場】アサヒ・アートスクエア

メディアと芸術:構成(状況により変更する場合があります)

01. 二つの「戦争画」聖戦美術展(1939年)ベイルート空爆(2006年)
02. 日展的な価値と北海道アンデパンダン展(1946年)または九州派
03. 具体美術協会とTV
04. 万博芸術/「一般市民を”巻き込む”」垂直的ゲリラ戦(1970年)
05. フルクサス/E.A.Tから「芸術家=市民」水平的関係性の美学
06. 中谷芙二子水俣病を告発する会 テント村ビデオ日記」(1972年)
07. 個人を発信源とする表現の時代へ「国立ビデオひろば」小林はくどう
08. ポスト68年代、大きな物語から小さな物語へ「障害者アート」
09. 阪神・淡路大震災と主体化する「在日外国人」(1995年)
10. コミュニティーアートとコミュニティーメディアの胎動
11. 新しい政治化時代
12. 芸術家のストライキ(2003)
13. クリエイティヴ・シティー論と246表現者会議
14. 集合的身体と映像「麻生邸リアリティーツアー」
15. インディーメディアと日常に経って
16. クレメント・グリーンバーグの亡霊たち
17. 恊働的創造のプロセス、あるいは「宮下公園ナイキ化問題」


・先週と同じアサヒ・アートスクエアというホールへ。登録していたメールマガジン的なものから上記のようなレジュメを送ってもらっていたものだから、それはもうぜひ聞いてみたいものだと思って行ってみたのでした。全編を通して興味深く聞けたのですけれども、特に後半の「コミュニティー・アート」と呼ばれる芸術の流れの中で「妻有アート・トリエンナーレ的なもの」をどう解釈するか、という部分はとても新しい発想のように思われた、というか端的に「妻有アート・トリエンナーレ的なもの」に対する何かもやもやしていた理由が少し明確になったような気がした。講師の藤井光さんは決してそれに対してあからさまな違和感を表明していたわけではないと思うけれども、しかし一方そのような「地域」と「芸術」が結びついた結果として「渋谷246ギャラリー」のようなことがありえたりもする、というパースペクティヴにはなるほどなぁと思わされ、個人的にも確かにそれはそのようであるのだと思う。藤井さんはとても慎重に「地域」や「都市」と「コミュニティー」や「表現」の関係について、ときに話しにくそうに話していたのがとても印象的だった。


・それにしてもこの2年くらいの間に「渋谷246ギャラリー」であり「宮下公園ナイキ化問題」といったことがあるとして、しかしそれらは恐らく気をつけなければ気がつかない問題なのだと思う。(普通の人、と記しそうになって何だかわからないので)多くの人にとってはそこに「引っかかる」理由がないし、それはずっとそのようであったと言えばその通りなのだと思う。そして多くの人にとっては地下道がギャラリーになることは「ちょっと良いこと」だし、宮下公園がナイキの公園になって色々な施設ができたりすることも「ちょっと良いこと」なのだと思う。そこで地下道をギャラリーにするにあたって、あるいは公園を民営化するにあたって、その場所から路上生活者を排除している、ということを伝えず「悪質な落書きVS純粋な美術学校生」のようなフレームを作るのはマス・メディアの問題でもある、というのは藤井さんも話されていたことで、それは全くその通りであると思うのだけれども、自分が気になって仕方がないのは、その手前の段階だったりもする。


・つまりその「ちょっと良いこと」って何なのだろうかというのが自分にとっては大きな疑問である今日この頃。例えば街で自由に喫煙している人がいるよりも喫煙しない方が「ちょっと良いこと」なのでしょうか?…わかりません。いずれにしても「多くの人が『ちょっと良いこと』だと思うこと/あるいは多くの人にとって整合性が保たれることを必死に探してそれを片っ端から実行するのをやめませんか?」というのは無茶な提案なのだろうか。その根拠を示すことができるのだろうか。それはもう「発想する」ことをやめる提案だとする。「そんなことを発想する」ことをやめる提案であるとする。具体的にはこの場合「そんなこと」は何だと思うかという問がある。そしてでは今本当に発想するべきなのは何なのかというとても抽象的な問題もある。