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  映像研究

雨、週末、高尾、読書、……

 
・雨が降っていて外出するのも億劫だ、と誰もがネットワークでつぶやいている。そのようなつぶやきを読みつつ「よし、面倒くさいのは自分だけではないのだな」などと思ったりしないこともない週末。金曜日から日曜日までは東京に仕事をしに行くのです(下界に下りていくニュアンス)。そういえばこの間、もしかすると高尾に引っ越しているかもしれない某友人と「高尾・入口説」について話した。どういうことかと言えば「一般的に高尾は中央線の終点というイメージから、また東京から西に向かって移動して初めて山が現れることから、その山を行き止まりとするような『壁際』のようなイメージがあって、それは多くの首都圏在住者に共有されている感覚であると思われるのだけれども、しかし実際はそうであると同時に、いやそれよりもむしろ、多摩や武蔵野の平野の外側に当たり前に存在している山や里や色々な地域への『入口』のようなイメージであるのではないか」というような話で、そして「高尾に住もうと思ったり、また普通に高尾山に観光にくる人でさえも、何か求めているイメージはそのような『入口感』に集約することができるのではないか」というような話。「その『入口感』の入口を入ったとして、じゃあ『中』ってなんだろね」という話や「高尾以外のいろいろな場所や地域や町を『入口』として見立ててみるっていうのも面白いのでは?」という話など。



・そして雨が降る中で本を読んだり買ったりしている。新宿の大型書店「本屋一番」にて並べられていて、気になってつい購入してしまったのは『atプラス』という雑誌で、リニューアルして初めて手に取ってみたのだけれども、巻頭の見田宗介という人と大澤真幸という人の討議が面白そうだったのでした。タイトルは『名づけられない革命をめぐって/新しい共同性の論理』というなかなか圧倒されるようなもので、自分には理解しきれなかった部分もあるのだけれど(だから備忘録的には『社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)』と『逆接の民主主義 ――格闘する思想 (角川oneテーマ21)』を読みたくなった、ということも記しておこう)、しかし比較的に理解出来たと思われる箇所から挙げるならば、「共同性」について(個人的にはそれは「倫理」とも読めるのかなと思ったけれども)それを人文知と呼ばれるようなもの以外の「六次の隔たり」や「利己的な遺伝子(を逆手に取って)」も参照しながら、議論のポイントを作っていたようなところは興味深かったし、あるいは「小さな共同体」同士に「偶然のコミュニケーション」をつくるなんていう話はなかなか希望的だとも思う。そして全く関係ないですけれども、大澤真幸という人を雑誌や書籍の写真で見かけるたびに「スチャダラパーのシンコに似ているなぁ」と思ってしまうのは自分だけではないような気がしています。



・また図書館で借りてみて、読んでみたいと思ったところからパラパラと読んでみているのは高橋悠治という人の『きっかけの音楽』という本で、まずその「きっかけ」の「音楽」っていうタイトルにぐっときたのですけれども、冒頭の『ことば、文字、……』の「一枚の葉は他のすべての葉と違うのに、同じ名で呼べるのは何故だろう」というような部分が、ちょっと笑えたりもするくらい面白い。この間から自分に衝撃を与え続けているユリイカの「ソクーロフ特集」の前田英樹という人と吉増剛造という人の対談を読んでいて思ったことでもあるけれども(そしてそれは「音楽」ではなく「映像」がテーマになっていたのだけれども)、ある感覚や現象を、その感覚や現象に可能なかぎり忠実に記述しようとしたときに/あるいは記述することでその感覚や現象を自分の中で再現しようとしたときに、どうしても言葉が断片的になってしまう、そのような言葉の使い方、またそのような「記述」の仕方を面白いと思う。そのような言葉の使い方をそのまま「詩」であること/「詩的」であることと結びつけることは、何となく素朴すぎる気はするけれども、それでも「表現」というものを「コンセプトやテーマ」というものと遠ざけて考えてみたいと考えている最近の自分にとっては、そのような「記述」が表現の「きっかけ」になるかもしれない、などと思ってもいるのでした。