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  映像研究

夏の横浜トリ遠足

 
・休日であるところの水曜日は朝から出かけて、八王子から横浜線桜木町方面へ。夏の遠足としての「横浜トリエンナーレ」へ。いつも内外の有益なアート情報を伝達してくれるR君とともに各会場を鑑賞。午前中から「横浜美術館」「bankart」を回り、関連企画であるところの「新・港村」「黄金町バザール2011」まで。夕方遅くまでの横浜アート・クルーズは寒気のするような暑さと戦いながら、ほぼ丸一日。観賞後ランドマーク近くのお好み焼き屋にて意見交換。22時解散。



・それにしたって色々なことを考えた。色々なことを考えるけれども所謂「レポート」のようなことを備忘録するのも特別意味があるようにも思えないのだから、自分が考えたことは大きく分けると(分けてみた/けれどももちろんそれは暫定的だ/けれどもときには項目のように整理してみることはきっと意味がある/かもしれない)「2001年の横トリからちょうど10年なのだなぁ(随分と色々な様子が変わったのかもしれないなぁ)」ということと「『アート』と『地域』の強い関係ということがトレンドなのだなぁ(そのような時代に『フェスティヴァル』を構想するならばどうしたらいいのだろうなぁ)」ということで、それは基本的に普段考えている事柄だ。目の前の出来事から普段考えている事柄を考える。それは普通だ。暑くても普通を続ける。あるいは飽きたならば変化する。



・2001年の横浜トリエンナーレの時に印象的だった作品のひとつは、ブースの中にモニタがひとつだけごろんと置いてあって(モニタ、というところが2001年だ)「作者は(トリエンナーレを)辞退した」と話す人が映っている(それが作者本人だったのかどうなのかは覚えていない)映像がループ再生しているというもので、ブースに入ってきた鑑賞者はモニタを見て、(恐らくは)解説のテキストを読んで、またモニタを見て、はぁそうですか、という感じでブースを出て行く、というそのアートワークを、しかし私達は「アートワーク」と呼ぶことは適当なのか、どうなのか、という話を大学の「インスタレーション研究」という授業でディスカッションしたりしたことを(まるで昨日のことのように/というほどではないにしても/わりと普通に)覚えている。



・その行為と成果物(?)が置かれた状態がどうやら芸術作品として成立しているらしいというのは、ある「現代的な芸術」の文脈というようなものに沿っているらしいということで、それは「芸術を芸術として成り立たせている文化、経済、社会的な制度というものに対して言及する、そのことこそが現代の芸術の役割である(と思っているのかどうなのか)」というような、ある意味ではとても明快で、かつ間違っていないような説明がある一方で、いやでもさ、本当の、本当の本当の、ぶっちゃけて言うならばそれってさ…(引きつった含み笑い)というような意見の交換をしたのは紛れもなく2001年だったと思う。そしてその一方では、十メートルだかの鉄のドレスが吊り下げられていたり、花火を模した巨大なネオンの作品があったりしたのが2001年だったのだと思う。何だかわからない(わからなかった)崇高そうな存在と、崇高さを相対化するような存在ではない行為とその成果物が並列に並べられていたのが2001年だったのかもしれない。



・それで時は流れて2011年の夏。今この時に今この国に並べられた現代的な芸術作品は、大抵崇高そうな印象はない。もちろん中には「大きいなぁ」とか「よく作ったなぁ」とか「よく蝶を集めたなぁ(ダミアン・ハースト)」とか「よく映画観たなぁ(クリスチャン・マークレー)」とかの作品もあるのだけれども、比較的カジュアルな印象だ。そしてだからその印象とは、印象の違いとは何だろうかと考えたりもする。



・あるいは「新・港村」や「黄金町バザール2011」を観て回ったならば、まったく普通に「作っている『プロセス』自体も作品(のような物/事)」とされているような印象だ。すべてがそうではないのだけども、大抵プロセスだ。作品を作るプロセスを見せることが作品(の一部)であるのだし、展覧会を作るプロセスを示すことが展覧会(の一部)であるのだなぁと思う。そういう印象だ。そこに「完成」という考え方を持って立ち入るのは野暮なことなのか、どうなのか。あるいは自分だってそのような「プロセスを重視する」ことを相当に面白がれる自信(?)があるのだけれども、まるでそれが当然のことのようになると、それはそれでちょっとまた別の事柄を考えたりしないこともない……ということは、ちょうどいま杉田敦という人と北澤憲昭という人の『アート・プラットフォーム』という本を読んだりしていることとも関係があるかもしれない。



・「アート」でも「現代美術」でも、呼び方はどうあれ、そういった作品や行為に何かの意味を感じて、あるいは「役割」のようなことも感じて、それらをウォッチしたり、それらについて誰かと話をしたりするけれども、そこで「役割」と言ったときに、それはどうなのか、ということも考えたりしている。「アートは社会的な貢献など考える必要はないのだ」と「アートこそ社会的な発言そのものなのだ」との狭間で、途方に暮れている人もいる。自分だってぽかんとしている。それはまた特異な点としての(とか言うことに躊躇しつつも/それはやっぱり特異だろう/今後どうなるかわからないけれども)2011年の今だ。途方に暮れる今。途方に暮れることすらプロセスだとか思えない今。途方に暮れることは正しく「操縦不能(アンコントローラブル)」であるのだから、差し当たっての問は「さて、どうしようか」になる。



・「さて、どうしようか」と思う。そしてそれで考えること(唯一考えられること)は例えば「『言葉』よりも前に『詩』があった」ということを、どこまで本気で考えることができるか、というようなことかもしれない。「詩は社会的な貢献など考える必要はないのだ」と「詩こそ社会的な発言そのものなのだ」の狭間で途方に暮れながら「『言葉』よりも前に『詩』があった」と思い続けることはどうなのか。機能としてのコミュニケーション言語だかの前に「叫び」や「笑い」や「うた」があるのならば。そしてそれをすぐ隣にいる人と交換し合うことができるのならば。どうなのか。交換できるのならば良いなぁと思う今。