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  映像研究

朝のコーヒーショップでテキストをエディットする

 
・一般的に会社のようなところで行う労働が一年間のサイクルで動いているにせよ、ここまで毎年同じようなことを同じような感じで繰り返すということもそうそうないのだろうなと、あるいは知り合った人に自分の業務の内容と生活の形態を説明したならば「それは季節労働者ということですね」と言われて、そのような自覚とともに過ごすようになって、早くも10年。10年はひとつの昔。10年はひとつの時代。あるいは10年は定点観測の最小単位かもしれない。だけれども、そういう全く意図しない、全く狙っていなかった、全く気がつけば的な定点観測的業務を継続してきて、それによってわかることももちろんある。そしてそのこととは別に、この季節の備忘録を振り返ってみれば、毎年のように決まって「少し落ち着いて、少し暖かくなったら、やりたいことリスト」のようなことが記されているから、そのリストの、そのときの自分の、少しだけ先にあるようなこと(あって欲しいようなこと)が記録されているのもよい。大抵は読書のことと、ファッションのことと、何かを修理することと、どこかへ旅行へ行くことだけれども。


・旅行に行きたいと思っている。夏のお盆のような季節に母の実家に行ったこと以外、ほとんど東京都・神奈川県・埼玉県を出た記憶がない。山へ登りに山梨県へも行っていない。稲城と、新宿と、清瀬・新座の、トライアングルと、その中継地点としての調布と府中、そして「へそ」のような東小金井。そういうフィールドを、文字通り右往左往(東奔西走)していたならば、すっかりこの一年が過ぎてしまったかもしれない。


・ちょうど一年前(20130126)に大学のワークショップで上演作品を構想することになって、それはそれを構想した2012年の9月の段階でおそらくは2013年の3月に引っ越すことが決まっていたのだから、さしあたり「引っ越しの練習」というタイトルをつけてみて、つけてみることから何か考えられないかなと思っていたのだけれども、たとえばその時期に感覚していた、自分の生活のフィールド、高尾という宇宙の中心のような場所があり、背中には高尾山、そのさらに向こうには藤野というカオスがあって、そのさらに先にはアルプスすらあって…というその傾斜の、その傾斜に沿って流れてくる空気のようなものを纏って、あるいはその傾斜を転がってくるものに乗っかって、中央線に沿って東へ動く。そのまま新宿にたどり着く(寝ていたら着く)というようなフィールドとは、はっきりと違う場所で、はっきりと違う生活をしている今があると思う。


・ところでそういう場所に関する感覚を面白いと思って、なおかつとても大切なことでもあるし、もしかすると今の自分のこの30代という時期に特有の感じでもあるのかもしれないと思って、あるいはまた2011年3月以降に多くの人がぼやっと考えたり考えなかったりするような意識でもあるような気がして、それを何かのかたちで見たり聞いたり体験したりできるようなことにできないものかと思っていた。そしてそれと映像メディアや美術のようなこととはどういう関係をつくれるのかとも考えていたかもしれない。そういうことを考えていて、偶然にもそれを試せる機会があったからそれを試してみて、その試したことからそういえば一年が経ったと思った。備忘録とは別に、そういう強いて言うならば作品というようなことによって、刻まれる定点観測もあるのだろう。


・とか思うことと関係があるというわけでもなく、しかし全く関係がないかといえばそうでもなく、実際のところは少しだけ業務の一環でもあるのだけれども、しかしとりあえず単純に面白いので、毎年この季節の週末には各美術大学の卒業制作展を観に行く。先週は土曜日に横浜の東京芸大映像研究科メディア映像専攻の修了展へ行き、日曜日は母校の武蔵美へ。そして今週末は可能であれば土曜日は東京造形大、日曜日は上野の東京芸大へ行きたいと思う。それはもちろん作品を観に行くのだけれども、そしてそれによってはっとしたり、ショックを受けたりすることもあるのだけれども、それと同時に自分にとっては定点観測のように、そこから何かを考えるきっかけだったりするかもしれない。


・本当に当たり前のことであるのだけれども、定点観測のなかで、変わらないことと、変わることを知ることができる。そしてつねにあらゆるものが変わり続けていることを考える。たとえば「生成」と、たとえば「生成変化」と言ってみて、それは何だかさも特別な概念ふうの言葉であるけれども、同時にあまりにも当たり前すぎて力が抜けるような言葉でもあることを思う。だけれども「生成変化」という言葉についていまぼやっと考えているのは、最近読んだ本の中で「生成変化」と「老い」について読んだからだった。生成変化ということを思うならば「老い」ということは、何かが「できなくなっていく」ことだとか、何かが「衰えていく」ことだとかいうふうには理解されない。それはただ別のものに変わっていくことである。変わり続けている。数日おきに会うたびに、数年の年を重ねているような、そういう今までとは全然違う時間の中に生きている人がいる。まずはじめに食べることができなくなって、それから歩くことができなくなる。いまは見ることと聞くこと、そして話すことができる。そう記述した後でしかし、そういう「できなくなる」こととは違った、変化し続けているその人を思うことができる。そしてまったく違う生命の力を感じたりもする(notスピリチュアル)。その不思議さについて。