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  映像研究

秋の遠足、芸術とアーカイヴスについての備忘録。

 
・10月15日木曜日は気持ちのよい秋晴れに絶好の遠足日和でドライヴィン。アートな先輩たちとともに、清里に(ひっそりと)あるらしい『清里現代美術館』という聞いたことがあるようなないような美術館へ向かったのでした。途中「萌木の村」という清里のファンシーな世界観の現在形的なテーマパーク?でハロウィン仕様の飾り付けに囲まれながら昼食。それもまた秋らしいと言えば秋らしい。のち目的の美術館へ。入館して説明を受けてぐるり一周したならば、そこが美術館であると同時に巨大で圧倒的なアーカイヴスであることを即座に理解する。マルセル・デュシャンジョン・ケージヨーゼフ・ボイスだって、それはもうもちろん凄いのだけれども、この空間において最も興味深い「アーティスト」はとりあえず「伊藤兄弟」だ。熱心に説明して下さった館長と、その弟さんが集めたという「現代美術」「フルクサス」関係のコレクションは「ひとりの人が一生のうちに集められるものの量はどれくらいなのだろう?」という疑問に対するひとつのケース・スタディとして、あまりにも感動的だ、と思ったりもする。



・と同時にある作品を前にしたある瞬間に「ああ、これらはあくまでも物でしかないのだなぁ」と、これは決して悪い意味ではなく、そして当たり前といえば当たり前の事実を思う。アイディアや行為やそれによって変化する人や制度や……そういう様々な「出来事」の部分的な証言として、偶然この場所に流れ着いた漂流物のような物。そういう物が存在する、とは一体どういうことなのか。まったく回答も返答も得られそうにない質問でも疑問でもないそれ自体ぼやっとしたアイディアもまた自分にとっては「何か」だ。あるいはまたあまりにも圧倒的なコレクションの前で途方に暮れていると目に留まったのが「NO MORE ART」の文字で苦笑。頭はぼんやり、足はフラフラだって「もう芸術はごめん」かと言えばそんなこともない。どちらかというと「MORE ART」です、というこれは秋の一日の備忘録。