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  映像研究

秋の夜長に『抱きしめると、ヒビが入ります。』の記憶とその現在形。

 
・週末であり連休でもある昨日まではまたしても業務に費やされた。色々なところで開催されている面白そうなイベントごとなど気になりつつも(それはもう例えばちょっと遠いけれども『YIDFF』とか)今はひっそりと修行の期間だと言い聞かせて業務。「ライフ・ワーク」とは趣を異にした「業務」ではあるものの、結果的にそれがなかなか面白いことだってある。自分の場合は、それが本来の意味での「お祭り=イベントごと」である限りにおいて。



・そのような日々の暮らしの合間にお茶の水のレンタル店『J』にて、金券を有効期間内に消化すべく必死に(本末転倒だ/思うつぼだ/しかし悪い気もしない)色々なCDをレンタルしてみている。そしてせっかくなので可能なかぎり今まで自分が聴いたことのない音楽を借りてみようと思う。例えば最近『ストリートの思想 転換期としての1990年代 (NHKブックス)』という本を読んで気になったのは、自分が全く「じゃがたら」というバンドの音楽を聴いたことがないことで、ある文脈においては、ジャパニーズ・カルチュラル・スタディーズ的に(?)避けて通れないような印象を持ったのであって、今からでも遅くはないと思って(借りて)聴いてみる。そして同時に部屋に積まれていた本の中から拾いだした『じゃがたら』なども読んでみると、その流れで春に買ってみた『K8』という雑誌の「OTO」という人のインタビューだってもう一度読み返したくなり、更にはちょっと微妙な繋がりとして本棚の『NO!!WAR』みたいな本すらも再読してみれば、それはもう「じゃがたら」の音楽それ自体については関係ないことも含めて、ちょっと自分の中での80年代(から90年代)の歴史が更新されたような感があって、特にそれが有益なスタディーズであるのか自信はないけれども、そこには何らかの感慨があったのでした。



・しかし一方自分にとっては「OTO」「EBBY」というクレジットから真っ先に思い出されるのは、何だか申し訳ない気がしますけれども「じゃがたら」ではなく、小6のときにお小遣いを溜めて購入した(ように記憶している)小泉今日子という人の『AFROPIA』というCDなのでした。小学生だった自分としてはもう当然のように『あなたに会えてよかった』みたいな曲がたくさん入っているものと思って購入して、勇んで聴いたならばそのあまりの渋さに(当時は渋いとも思えずただただ不条理だった)即売却しようとしたような記憶。そして藤原ヒロシASA-CHANG、DUB MASTER X etc...の曲のおもしろ&格好良さを理解したのは、その後高校生くらいになってからだったような記憶。



・今聴いても普通に、とても普通な意味で「良いポップ・ミュージック」だと思えるような音楽が、しかしどのようなクロニクルの中でかたちになったのかを(何となくでも)考えたのならば、それはまた違った聴こえ方をするようにも思う。大衆的に受容されるカルチャーを、全然そのようではない人たちが色々な経緯から作っていたりすることを知るのは本当に面白い。その時、その仕事という「場所」が、ある人たちにとっての「アジール(避難所でもあり聖域でもある、という意味で)」であったようなイメージの面白さ。そして本当は本当に、カルチャーはそのようなことの連続を事後的に解釈したようなことであるようにも思う今日この頃。無理矢理関連づけるならば、この間知人と話していて全く意見が異なった「パンクというかDIYとでも言うかそのような信頼できる系のマインドを持っていると思っていた写真家(たち)が『暮らし系』や『アウトドア』的な雑誌のグラビアを撮影している問題」についても、きっとそれはその人たちがそのようなメディアを「アジール」として捉えているという意味では、同様にアクティヴィティの一部なのだと、少なくとも自分は思っていたりもするけれども、しかしそんなに大袈裟なことでもないのかもと思ったり。



・ところで『AFROPIA』というCDの帯の部分には確か何か気の利いたコピーライティングが書かれていたような記憶があったので(しかしCDはどこかにいってしまったので)こういうときにウェブ検索は本当に恐ろしいほど、どんな情報でも得ることができるのだなぁと思って調べてみたところ『抱きしめると、ヒビが入ります。』だということがわかった。CDだから『ヒビ』、CDがまだそれなりに新しかったからこそのコピーライティング。小6のときにヒビどころか間違って割ってしまわなくてよかったと思う今日も、20年近く前のポップ・ミュージックを聴く。



AFROPIA

AFROPIA