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  映像研究

ゼロベース

 
・201711071151。welcome、ここは中央図書館、というページからネットワークに接続して、再び図書館の共有テーブルから見る光景。窓の外の街路樹はすっかり紅葉している。秋雨前線が去ったならば秋の気候になった。天高く。乾燥している。空気がクリアであるように感じる。物が平熱であるように感じる。であるからして物の質がそれ本来の動きをしているように感じる。エアをコンディションしなくても良い状況。それはほんの一瞬でしかない。


・「ゼロベースで」でと人は時に言う。すべてをなかったこととして考えてみるということ。そんなことは不可能で「ゼロベース」という日常的な言葉の意味はもう少し違ったところにある。いまの自分は「ゼロベース」ということをどう考えられるか。特にこの二週間ほど、そう考えていた。言葉を失う。ある時には本を読んだり映像を見たりすることでそうした別の思考が始まるかもしれないけれども、自分の場合は圧倒的に他者の存在によるところが大きい。当たり前のことだとも思う。


・自分が解体されるということ。再構成されるかどうかはその時点で何の確証もない。もちろんどうにかして生き続けることを望むだろうが、その時は全く先のことがわからず解体される。それは本当に当たり前のことだが「『A』という考えを『B』という考えと取り替える」というようなことではない。「考えている」という自分の視線を自分に向けた時に、自分はすっかりぎこちなくなり足場を失う。言葉を失う。失いながらも話す。そして聞く。


・「確かなこと」を「書く」ということはどうしてこんなにも難しいのか。それはいま自分が取り組んでいる「文章を書くこと」でもやはりそうなのだ。「自分が」「文章を書く」ことに「取り組んでいる」ということもバラバラになって、それでもやはり途中まで形にしたものを更新したい。同時に、そういえば「自分が書いた文章を誰かに『添削』される」ということは一体いつ以来だったか。予備校でそのようなことがあった。修士論文を書いている時にアドバイスをもらうことがあった。あるいは集団で活動をする上で、自分が書いた文章を元にして他者とともに書くということがあった。それがスムーズに、ただ楽しく気持ちが良いだけで進むはずがないのだ。


・そしてまた、自分も仕事として他者の書いた文章を添削する。時々これは何という暴力的なことでもあるのかと思うことがある。文章を書くことが、書く人の力や運動の結果であることを感じたならば、そこに「何事かを言う」ことは勇気がいる。それは絵でも映像でもパフォーマンスでも本当はそうなのだ。ある地点から先に潜って作られたものに対して介入することは本当に難しい。でもそれが必要だと思う。


・中断。