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  映像研究

浅草から三鷹台、高田馬場から水道橋、ワンダーフォーゲルからうたご

 
・ある日。であるところの火曜日は昼から浅草にて撮影。集合場所の雷門の前は平日にも関わらず観光客&修学旅行客で物凄い賑わい。ただしほとんど全員マスク着用でちょっと不思議&不穏かつかわいそうな光景。こんなに天気もよいのになぁそれつけなきゃいけないのかなぁと複雑な気持ち。どこから来たのかわからないですが、東京はそんなに怖いところじゃないよ、と言ってあげたい。あとついでだから、路上でエイプのTシャツとか買っちゃ駄目だよ、とも言ってあげたい。こちらはもう一応は大人なので。


・2hほどのシューティングの後は撮影に同行していた方に誘われて井の頭線三鷹台のカフェ(かふぇ)へ向かう。今月で閉店してしまうということで、その最後の「ありがとうパーティー」へおじゃました。自分は荻窪-高井戸時代に一度お昼を食べに行っただけだったのだけれども、上品なランチでちょっと良い雰囲気のお店だったのでやっぱり残念。残念ではあるけれども、最後にちょっと行けて良かった。



・ある日。であるところの水曜日は朝から高田馬場で撮影。4hほどのシューティングの後は新宿に移動して、少しだけ面倒くさいイレギュラーな業務(S・M・I・G)を数時間。


・夜は先週のMTG以来のマーケットの皆さま方と、今日本で一番素晴らしい水道橋の食堂『A』へ。こんなに素晴らしい食堂に一週間に一度来られるなんて、これはミラクルだ、と思いながら凄い美味しい野菜やパスタ及びワインなどを飲食しつつ歓談。それにしたってKJ君とか山部メンバーとかと遊んでいると、全く意図せず「美味しいもの」のハードルが上がってしまうものだから、そのことがもはや少し怖い今日この頃。基本的には昔から「何を食べても美味い星からやって来た何を食べても美味い星人」を自称したり他称されたりしているのだけれども、それとはまた違ったレベルで「美味しいもの」の「美味しさ」を発見するような面白さが面白い今日この頃なのでした。閉店後はこちらも先週に引き続き「即席・うたごえ喫茶」に雪崩れこむ。ディ・ドリーム・ビリーヴァー・再び。みんなで歌う。



・みんなで歌うことについて最近考えている。その気持ちよさと恐ろしさと面白さについて。そういえば自分は中学校の卒業文集のようなものにすら、確かそのようなことを書いていたことを思い出す。「合唱がいかに精神的に高尚な行為であるか」とかなんとか。だから今でも多分「みんなで歌うことができればとりあえず大丈夫だ(?)」と思っている。「それがあれば明日からもどうにかなるだろう」と。それほど大袈裟なものでもないかもしれませんけれども。あるいは何か難しいことがあるときほど、(ほとんど無意識に)歌を歌ってしまうのだという風にも思っている。


・最近山に登ったりしているときに「『山部』を作る夢が叶ったから次は『合唱団』かな?」と冗談のように言ったりしているけれども、それはあながち冗談でもないのかもしれません。21.1世紀(なんだそれ)における、新しい「うたごえ喫茶」「うたごえ運動」とはなんでしょう。誰もがCDなんて買わなくなって、誰もがダウンロードすらしなくなっても、それでも誰もが誰か、歌を歌い続けるだろう。とりあえず「KA・RA・O・KE」みたいなものだって、それをもっと面白いものとしてアレンジして(間違った使い方で)使えるはずだとか、そんなようなことを思ったりしないこともありません。


ワンダーフォーゲル 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
19世紀後半のドイツにおいての急激な近代化に対する広い意味での自然主義の高揚を背景としている。
はじめ、フィッシャーらは男の子ばかり郊外の野原にでかけてギターを弾き、歌を歌った。そのうち、グループの緑の旗が出来たり、男の子は半ズボンに、ニッカーボッカーのようなスタイルになり、女の子も参加するようになる。
Wandervogelは直訳すれば「渡り鳥」の意味である。1901年運動のメンバーの一人、ヴォルフ・マイネンが、運動の中心が歌を歌うことだったので、ワンダーフォーゲルと名づけた。鳥、つまりさえずるという意であると同時に、社会の固定された規範から自由でありたいという願いが込められている。

うたごえ運動 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
うたごえ運動は1960年代に日本でピークを迎えた、合唱を中心とする社会運動である。労働歌・反戦歌および日本やソビエトの民謡をレパートリーとしつつ、大規模な創作活動も行っていた。つまり、社会運動であると同時に音楽運動でもあるという特異な性格を持っていたことになるが、その一方で、日本の工業化・農村離れが進む中、失われつつあった民謡や演舞等を掘り起こし、自分たちのレパートリーの中に組み入れるという、民族主義的側面も持ち合わせていた。職場や学生のサークル、当時流行した歌声喫茶などを拠点に全国的な流行を見た。