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  映像研究

十月の7日間、と2003年の3月にまつわる、断片的な雑記

 
・二つの、全く違った種類のバック・パッキング/登山から帰ってきて、すっかりその片付け諸々に明け暮れてしまった水曜日。各種ウェアを洗い、ブーツの泥を落としてオイルを擦り込み、寝袋を袋から出して吊るし、テントの汚れを拭いて、畳んで仕舞う。そしてそれはまた次のアクティヴィティへの準備でもあるのだ(から丁寧に行おうと思う)。



・そしてそのような休日に通常業務の準備として、参考作品上映にちらっと使用してみようと、今日の日記のタイトルによく似た題名の、とある演劇/パフォーマンスのDVDを購入していたので、それを鑑賞する。自分は、多くの「ゼロ年代カルチャー、を追いかけたり、引きづりまわされたりしている方々」と同様に(?)この演劇/パフォーマンスが好きで、好きでっていうか面白いと思っていて、5回くらい観てたりしてっていうか、うっかりするとついついそういう口調になりがちじゃないですかぁ?みたいなことになってしまう、その演劇/パフォーマンスや、その劇作家/パフォーマンスユニットがつくる作品から、とても色々なことを考えさせてもらっていると思っている。


・そしてその代表作(と言ってよいのだろうと思う)であるその作品はある種の群像劇であることもあって、見るたびに色々なキャラクターの立場からその心境を想像させる(しかし作品としては、その全体を包むパフォーマンスのスタイル、そのクオリティのようなものについつい見いってしまう)のだけれども、今回はどういうわけか、その舞台である「2003年の3月」という固有の時間のこと考えさせられて、また個人的な歴史としての「2003年の3月って何していたのだろう?」というような回想だってしてみたりしつつ、いずれにしてもそのような発想に至ったのはこのところ(ここ1年くらい?)、デモンストレーション/パフォーマンス・アートとしての「デモ」あるいは「サウンド・デモ」について考えてみたり、そういや、すっかり忘れていたけど戦争、って今どうなっているのだろう、とか考えていたりしたことが理由かもしれない。


・そして2003年の3月の中頃に自分は「デモに参加していた」ということはもちろんなくって(もちろんあったってよいのですけれども)、そのようなことが渋谷で起きているということも全く知らずに、その隣の駅にある某美術館にて、ある展覧会に出展する作品の準備をしていた、はずだと記憶している。別にそのことを今考えてどうだとかいうこともなく(社会に目を向けてなかったことを反省するようなこともなく)、ただそのような個人的な歴史と、すぐ近くの別の場所の出来事が、それは当たり前なのだけれども、ある時間に同時に起っていたということを、5年前を振り返るかたちで考えてみると、興味深く思う。そういえばその作品の制作中に「大きな鏡がどうしても足りない」ということになり、渋谷の東急ハンズに買い出しにいった(誰かに行ってもらった?)ような記憶もあるのだけれども、そしてそのときに「今渋谷が何か騒がしいよ」的な情報もあったかも知れないと、今ふと思い出したけれども、どうだったのだろう、それはもう今となっては全くわからない。



・そして時は流れ、これは全くの「こじつけ」なのだけれども、とにもかくにも2008年の今の話。10月の最初の1週間「大恐慌だ」「バブル崩壊以上のアレが来る」とか何とか騒がれているそのときのほとんどを、渋谷のラブホテル、ではなくて高度2000m前後の「電波の届かないところ」によって過ごし、そして帰って来たならば、Yahoo!ニュースをちらちら見た限りにおいて、あらゆる経済に関する報道が厳戒態勢とでも言うべき危機感を演出していることに対して、どこか現実感がないというか、妙な「わけがわからない気分」にすっかり満たされている(それはもちろんそもそも「経済のことがよくわかっていない」ことによる部分が大きいのですけれども)。



・物語の中の、ホテルから帰ってテレビつけたら戦争が終わっているかも……という想像力と同じように、山から下りてみたら恐慌だの破綻だのはすっかり落ち着いて「何?またバブル!?」「え?次は宇宙バブル!?」とか何とか言っているような世界になっている……ということは、とりあえずないのでした。



・ところで今は、何というか、山登りというアクティヴィティも含めて、生活のあらゆる行動が、「嵐の前の…」的な、避難訓練的な(テントで生活とかそういう意味ではなく)、どうにもこうにもピンチなニュアンスを持ってしまうのは、非常に厄介な話だ(不要な危機感を煽るのは本当に無意味かつ有害なことだ/し、かなりの確率でいわゆる「セカイ系」的な勘違いとか何とかいうことになるのだろう/と思うから、特に多くの人が見るわけでもないオンライン上のこのような場所でさえ発言には気をつけようと思うのだけれども/煽られた危機感はさておき、しかし自分の勘は信用していたいという気持ちもある)。



・ちなみに久しぶりに聞いた、そして今までの中でもかなり一番くらいに面白かった『文化系トークラジオLife』(のポッドキャスト/テーマ「経済成長」)の中では「消費からの撤退」のようなことも話されていて、色々な意見がありつつも、それはある「終わりの始まり」でもある、というニュアンスがあるようにも感じられたのだけれども、一体それはどうなのだろう?(問いでも答えでもない)。あるいはまた、別のメディアで別の著名な批評家/哲学者がメッセージしていた「このようにしてこの国は滅びていくのだろう」というような意味の言葉は、具体的にどのようなかたちをとるのだろうか?(これは問いかもしれない)、とか何とか考える。



・そして、もしもそのような避難訓練が意味を持つような、つまり『災害』が起った場合、災害時における最低限のライフ・ラインを確保するために働くような人がいるのだと思う。あるいはまた「そもそもそれは天災ではないのではないか?」ということになれば、その『災害』を改善するために(中・長期的に)最前線で働く人もいるのだと思う。そしてまた、きっと『災害』の最中にも、その最も後ろのラインではそのような「避難所生活」のようなものの中に、生活の喜びとか希望のようなものを見いだすべく、頭と体を使う、そのような働きをするような人もいるのだろう。もしも、そうであるならば、今すべきこととは?……とか何とか、それ系のちょっとシリアス気味なことさえ考えざるを得ないような気もする、秋の夜長です。虫の声だって響くのです。