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  映像研究

10月のバック・パッキング in 大菩薩峠(2日目・復路編)

 
・10月のバック・パッキング in 大菩薩峠 with O・L・D(ポストKIKIを狙った、アウトドア系女子ユニットをプロデュース中)の2日目は、朝焼けの富士山で幕を開ける。プリムス161も絶好調でコンパクトに朝食をすませたならば、エア・ライズ a.k.a もうひとつの家、を手早くしまい込んで7時には山小屋を出発。本日は大菩薩峠から大菩薩嶺を目指すのだった。大菩薩峠からは尾根が始まり、尾根からは風景が見える。雲海が見える。雲海が移動すると一瞬町も見える。歩いてきた道だって見える。全部見える。





・そしてしかしそんな尾根はいつだってあっという間に終わる。それは森林限界でなくとも同じことだ。森林に戻ればブナ林に動物の足跡を探す私たち。動物の足跡をたどれば動物の姿は見えず、しかしそこには茸が生えている、というのも秋の山の光景の醍醐味なのではないでしょうか。鹿だろうか、猪だろうか、熊、ではないだろうな、というインデクスを巡る想像力。そういえば昔、小沢健二がOliveの連載で「キノコ狩りは騙し絵のようなものであり…」というようなことを書いていたことなどもちらっと頭をよぎる(わかる人にだけ/しか、わかる/わからない話)。私たちには全く茸は見えない。しかしどこからか「松茸っぽい」匂いはするのでした。幻臭?





・鹿のように山を走り下る(鹿を見たわけではないですが、想像では勢いよく下っていそうだ)ときにだけ考えられることがあるような気がしてならない今日この頃。一歩ずつ岩や、土や、木がつくる段を踏んで、斜面を下るときには、特に意識しないならば、からだが一番シンプルな動きを探しているようで、そのことが気持ちよく、面白かったりもする。そしてそれは多分、最も単純な言葉でコミュニケートしようとすることにも似ている、とか何とか言いたくなってしまうような、そんな心持ち。じんわりと膝が熱を持ってくる、その頃には頭は妙に冷たくなってくる。誰かと歩いていても一瞬黙る。「お疲れ〜。温泉、行っとく?」とか何とか言い合ってるときには、忘れているけれども、確かにある感覚。その感覚についてのクロッキー