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  映像研究

暖房器具を買うつもりで家を出て、一冊の本を手にして家に帰る。

 
・寒い。だいぶ寒い。秋の装いが、とか、夜長がとか、あるいは味覚がどうのとか、スポーツとか芸術とかもさておき、とりあえずかなりピンチな寒さが、予想より早く我が家にやってきました、よ。休日である月曜日の朝に目覚ましを止め、ああ雨か、と思い再び布団にもぐり、しかし、まてよ、これ、もしかして、あれ?寒いな……。と思ったならば、押し入れから引っ張りだしたフリースを着込み、先日運び込まれてきたばかりのホット・カーペットをおもむろに敷き、そしてその勢いで部屋を掃除。&思わずつけてしまったJ-WAVEにせかされるようにしてコーヒーを入れる。そんな月曜日の朝でした。


・思えば昨日の夜は、山部の「お疲れさま/晩ご飯ミーチング」にピンポイントで参加して、そしてそのことだけでどうやら、すっかり山に登ったようなつもりになっていたのだった。(山部はミーチングの結果「無理にスケジュールを調整するのではなく」「行ける人が行ける時にその時行ける人を集めてガンガン登るべき(毎週誰かがどこかに登っている状態)」という、新しいシーズンに突入したために、日曜日の定例業務に行かねばならなかった自分は早速置いていかれた。)それにしても、山に登ったみんなはとても晴れやかな表情をしていて、それがとても良かった(温泉に入ってきたからだという説もある)。



・そして自分にとって休日である月曜日は、昼過ぎに読書を中断し(寒いから)、何らかの暖房器具を購入するために、八王子〜橋本〜相模原〜町田まで。ちなみに外出するならば、アンダーウェアはパタゴニアのキャプリーン、2ではなく3。その上に着るフリースはR2ではなくR3(つまり寒いってこと)。暖房と特に関係のない古着屋などに適度なちょっかいを出した後、最終的にたどり着いたのは町田の東急ハンズ。その場所で、オリーヴ少女の嫁入り道具であり、クウネル帝国御用達の品でもある「アラジンストーブ」を前に、自分の生活における「ランニング・コスト(一日のうちどれくらいの時間稼動するのか、など)」と「リスク(ビールを飲んでころっと寝てしまったりしちゃだめじゃないか、など)」について様々に思いを巡らせたものの、その結果「とりあえず再考すべし」のと結論が出たために一路、帰宅。


・結局暖房器具を購入できなかった自分は、町田の古書店にて購入した、田渕義雄『寒山(かんざん)の森から―憧れの山暮しをしてみれば』を読みながらJRを乗り継いで高尾の家へ帰る。こういうときに自分は読むべき本を、読むべき時に、引き抜く勘は備わっているのだと思う。長野の山奥/1400m/薪ストーブ的な、著者の生活と自分の生活はもちろん全く違うものなのだけれども、その発想と言葉は、時々はっとさせられるとこがあり、もちろんそれが発行された時代(1986年/バブル前夜だ)とその言説の関係について多少考えたりしつつも、しかしとりあえずそれを今の自分にとってのアイディアとして捉えたならば、ホクホクしつつ、冬を冬らしく過ごす心構えを育みつつ、帰る。それにしてもいよいよ、ヘンリー・D. ソロー 『ウォールデン 森の生活』とかっていう本を読んでないことには、お話しにならない/意味が分からない、といった、つまりネクスト・ステージに入ってしまったように思います。


山で暮らすようになって、物事を単純にしか考えないようになった。結局、人は誰でも自分が好きになってしまった土地で、好きになってしまった人や物と一緒に暮しているだけのことなのだと思う。誰でも不平や不満はあるだろう。しかし、人は誰でも今ある自分の暮らしを本当はかなり気に入っている。そうでない人は、さっさと自分の暮らしをかえている。そうだ、好きになってしまった土地で、好きになってしまった人や犬や道具と一緒に暮すことを人生というのだ。そして、そのために人はさまざまに職業を選択している。
誰の生活が正しいとか、誰の暮しが人間らしいとか、都会は人が多すぎるとか、田舎の暮しが本当だとか……そんな言い方はいつの間にできなくなってしまった。今ある心の総体として、今ある社会や文明が今このようにしてあるにすぎない。(田渕義雄『寒山(かんざん)の森から―憧れの山暮しをしてみれば』より


・2008年の現在、その先の現在にいる自分は、例えばその言葉を受け取り、例えばそのアイディアの使える部分を使い、また組み替えて、色々と作戦する。