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  映像研究

そして新しい人、または21世紀の人、あるいは牛、ときどき熊、その他

 
・テレ・ヴィジョンが家にない生活の中で、ごく最近インターネットというメディアによって新しく知った言葉は「新ニッポン人」。聞くところ(読むところ)によると、それはテレビ東京のテレビ番組で特集で使われていた「消費に対して積極的でない、主に20代の若者を指し示す言葉」であるらしく、その特徴的な例として「車に興味がない」「海外旅行に行かない」「目的もなく貯金をする」というようなことが挙げられるならば、おおよそその言葉が何を意味しているのかが理解できるような気がして、「ああ!それはまるで自分のことだ」と思いかねない今日この頃(ただし貯金に関してはまったくないですけれども)。


・そして当然のことながら、「そういった(消極的な)消費行動」は、百害未満一利以上だけれどとにかくトータルでは損だ、と判断されるのであって、そうならば、「そういった(消極的な)消費行動」に対して、可能な限り具体的な改善策が講じられなければならない。しかしながらこの私に何ができるだろう(例えばそれは「ビールを飲むこと」だ/なぜならば「新ニッポン人」の特徴的な例のひとつに「ビールを飲まずサワーを飲む」というものがあったのだ)かと考えるけれども、まったくわからない。そして、しかし、もちろん、「車を買いまくり」「海外旅行に行きまくり」「まったく貯金をせず(例えば洋服なんかを)買いまくる」ことをしないことそれ自体がとても大きな問題なのであれば、そもそもその構造自体に何か欠陥があるのかもとか、あるいはその構造の耐用年数が尽きているのかもとか、そういったことを考えるのも、それはそれで自由だ。


・それにしたってテレ・ヴィジョンがないことによって、あらゆる情報が少し遅れてやってくる、というのはあらためて最近気がついたことです。それは例えば新しい言葉であり、例えば連続殺人事件の犯人の顔であり、大きな地震が起こったことで変化した風景であったりします。



・19日(木)は、朝から久しぶりの六本木シティへ。そもそも後輩の展示を鑑賞する目的で東京ミッドタウンに行ったならばしかし、せっかくなので行ってみようと思っていた「21_21 DESIGN SIGHT」の『21世紀人』展に行くのをすっかり忘れてしまう。その後気を取り直して(?)六本木ヒルズに移動して「森美術館」の『英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展』を鑑賞。おそらくはこの展覧会の目玉かと思われる、現代美術の教科書的にあまりにも有名な、ダミアン・ハーストの「牛」にドキドキしながらも、あるいはウォルフガング・ティルマンズの展示にすっかり翻弄されながらも、とりあえず自分は昨年のターナー賞、マーク・ウォリンジャーの「熊」の映像の前で数十分、声を殺して笑ったり泣いたりしたのでした。


・その後東京を北へ移動する。こちらもかなり久しぶりの御茶の水「ジャニス」に行ったらば、それもまたある種の爆笑ムービーであるところの『寺山修司&谷川俊太郎―ビデオ・レター () 』をひょんなことからレンタルする。早いもので半年前となった今年1月の「大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室」での『ビデオ・ランデブー』展のトークイベント的なもので観て以来の谷川俊太郎の映像は、見返せば見返すほど、何と言うか、これは本当に最悪のニュアンス形容詞だけれども、とても「今っぽい」。また、言葉とイメージの関係について考えつつ、言葉と意味の関係については特に何も考えない、そんな今の自分にとって、それはとても「オシャレな」映像だと思えたのです。