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  映像研究

個人的に、現代的な思想の、レポート的雑記/変な人と、まともな人。

第38回 紀伊国屋サザンセミナー 『思想地図』発刊記念シンポジウム
「公共性とエリート主義」
パネラー:東浩紀 北田暁大 姜尚中 宮台真司 鈴木謙介
2008年6月16日月曜日:19時〜 会場:紀伊国屋サザンシアター


・昨日月曜日は上記のシンポジウムに行ってきたのです。思えば真冬の東京工業大学にも業務の合間に無理矢理行き、当然のようにこの雑誌『思想地図』も購入し(しかしまだほとんど読めていない)、なんだか「現代的な思想」が大好きみたいだけど、「大好き」というわけでもない。しかしながら「興味」はある。「ミー・ハー」とはつまりそういうことで、それにしたってこの5人が並んだ様子は、さながらバスケット・ボールのドリーム・チーム的なアウラ全開の何かだ(この場合、誰が「マイケル・ジョーダン」なのだろう?)。


・内容に関して、大きなテーマとしては、タイトルが示しているように、どのように一般的な人々を「公共性」へ動機づけるのか、というようなことがあって、そのためにはある種の「エリート(主義)」というものをどう機能させていくのか、ということがあり、例えば一方に宮台真司という人が「エリート」を「社会のトータリティ(全体性)を把握する」ものとして、そういったエリートが例えば「ナショナリズム」「アジア主義」をメディアとして使う可能性があり得る、というような立場であるならば、また一方では東浩紀という人が、社会の全体性を誰も体現できないのならば、必要なのは思想ではなく適切な環境を設計することである、というような立場があり、しかし、かといってそのような対立がそれだけのものとして成立するのであれば、話しはわかりやすいけれども、それほど単純でもない、しかもそもそも当然のこととして、このような事柄は「程度問題」でもある、というようなことを、ノートをとりつつ、固有名詞に翻弄されつつ、理解しようとしつつ、とりあえず、聞く。


・それにしたって、どうしたって言葉の定義の問題やそれを整理することで精一杯になってしまう、このような内容のシンポジウムにおいて(もちろんそれはそれで大事な役割ですし、誰にでもできるというものではないのですけれども)、東浩紀という人の発想とそれを伝えるときのわかりやすさ、そして一貫性みたいなものは、とても凄いのではないかと思ってしまう(それは自分のような人がとりあえず「わかったつもり」になってしまうほどのものだ)。「動物的…」とか言わずとも、東浩紀という人が、現代に生きる人、あるいは人の繋がりをどのように「イメージ」しているかということは(何となく)わかり、かつ「どうあるべき」だと思っているか、ということも(何となく)わかる。その内容に諸手を上げて賛成するとかいうことではなく、あくまでも、言葉を使ったプレゼンテーションとして、しかしそれはあまりにも巧みだと思う。


・そして、そのような中から出てきた言葉のひとつが「パートタイム・マルチチュード」という言葉であって、社会へのコミットメントの仕方として「全人格的なもの」になる/を求める、のではなく「パートタイム的」なあり方を肯定する(そして「適切な環境を設計する」ことは、そのようなものの可能性を引き出すことを目的とする、というように解釈した)、というような部分はあまりにも面白く、そして「マルチチュード」にまつわる言葉の中でも格段にイメージしやすい(けれど「マルチチュード」という言葉自体が、あらかじめ多分に「パートタイム」的な意味を含んでいるようにも思えるのだから、この場合普通に「マルチチュード」でもよいのでは?とも思うけれど)。


・そして、長いかなーと思っていた2時間半はあっという間で、しかも「このパネラーではそういった話題は出ないのでは?」と思っていた、すごくミクロな「労働問題」や「すごくミクロな現代の「労働問題」を反映する(と思われてる)時事的なものとしての「秋葉原の連続殺人事件」(あるいは「マルチチュード」も)などが、すごくマクロな「社会のグローバル化」といったようなものと関連づけられるかたちで(しかし極めて注意深く)扱われていたことも興味深い。



・ところで、シンポジウムの後半の宮台真司という人の「『新自由主義』と『市場原理主義』とは別のもので、『新自由主義』はもはや『生存の条件』である」という内容に関連した「『新自由主義』(グローバル化、と言っていたかもしれない)を変えられると思っている人がいるとしたら、その人は『変な人』ですよ」というような発言(繊細な文脈の中での発言でしたが)に、思わず爆笑しそうになったのは、その「変な人」という言い方が面白かったからであって、例えばおもむろに「あ、変な人。」と声に出してみると尚一層面白いので、ギリギリ滑り込みで「個人的・上半期・流行語大賞」にノミネートしてみようと思う。



・そして、そんな「変な人」が大好きな自分が偶然(というのも何か変なかんじだ/関係ないことを強調するほどにそれはレトリックになる/それは広告みたいだ)、このシンポジウムが始まるまでの間に、ドトール・コーヒーでオレンジ・ジュースを飲みながら読んでいたのは、松本哉という人の『貧乏人の逆襲!―タダで生きる方法』という本で、「変な人」発言以上に爆笑しながら読んでいた(ドトールで隣に座って花火大会を観に行く相談をしていたカップルには甚だ迷惑だった)この本に書かれていることがつまり、ある種の、「グローバル化」的なものとは違った生活の方法、をとても「具体的」に、とてもわかりやすく示しているとするならば、このような人は、わかりやすく「変な人」という人になるのだろうかとか思うけれども、自分としてはこのような人を、むしろ、とても「まともな人」だと思ってしまうのは、要するに「楽しいことを自由にやるのは楽しい」とか「分けられるものは分ける」とか「人と繋がりながら生活していった方が良い」といったような、あまりにもまともなことを言っている(しかも楽しそうに)からなのだと思う。


・しかし、そして(シンポジウムの話しに戻ると)その最後の方では、「秋葉原の連続殺人事件」の話題に対して、宮台真司という人は「結局、友達がいるということが大切だ」と言い、姜尚中という人は(その犯人には味方がいなかった、だからこの社会に生きるものは)「味方をつくるべきだ」という発言があったり(あるいは東浩紀という人の「パートタイム・マルチチュード」の発言を受けて、それはある種の「アマチュア」ということとも関連してくるのでは、という内容もあった)することを考えると、不思議な気持ちになる。


・「変な人」や「まともな人」がいる。あるいは「変な人」でもあり「まともな人」でもあるような人がいる。高円寺にも秋葉原にも渋谷にも、色々なところにいる。たとえばそのことを考える。