第40回 紀伊國屋サザンセミナー 超左翼マガジン『ロスジェネ』創刊記念
「言論空間に挑む新雑誌」
第一部:浅尾大輔、雨宮処凛、増山麗奈
第二部:赤木智弘、東浩紀、大澤信亮、萱野稔人、杉田俊介
6月27日(金) 19:00開演 新宿・紀伊國屋サザンシアター(新宿南店7F)
・昨日27日(金)は上記のトーク・セッションにも行ってみたのです。「おい、そこの、ロスト・ジェネレーション」と言われれば「なるほど、一般的にはそのように呼ばれるのでしょう」と振り返り、あるいは「おい、そこの、ナチュラル・ボーン・左翼」と言われれば「なるほど、仰る通りでございます」と答えざるを得ない、そのような自分はしかしながら、この「超左翼マガジン『ロスジェネ』」という雑誌に関しては、本屋で表紙を目にしつつも今のところあまり手に取ろうと思わないでいる。そしてそれは何故だろう、ということは「メッセージ」と「媒体」について考える上で多分一応なかなか大切なことで、とりあえず思いついたことは、それが今ひとつ「オシャレ」ではないと思ってしまうということです。そういった意味で「オシャレであることとは何だろう」ということも考えつつ、ノートをとりつつ、聞く。
・第一部は比較的あっさりと『ロスジェネ』の編集委員と執筆者の3名によるプレゼンテーション的なもの(「ロスジェネ」宣言的なもの/あるいは綱領的なもの)があり、後半はそれを受けての、おそらくは「言論空間に挑む新雑誌」といったテーマに相応しいトーク・セッションが行われる、という流れだったと思うのだけれども、(どこまでが予定通りだったのかわかりませんが)、実際のところは、もう少し『思想地図』寄り、とでもいうか、ある種抽象的なレベルも含め、かといって固有名詞の応酬にもならず、ロストジェネレーションといわれるような世代と社会との関わり方、のような事柄が(進行されていた大澤信亮という人の言葉で言えば)「ざっくばらんに」話し合われていたのは、単純に面白かった。
・しかし同時に考えることは、そのような時の「面白い話」にも色々な種類の面白さがあるわけで、たとえば一方に「事実を教えてくれる/情報を伝える」という面白さがあり、それはそれで大切なことであるとした上で、それとは別にもう一方には「アイディアを発想する/情報の繋がり方を提案する」という面白さもあるのだということを考えざるをえない。それはつまり東浩紀という人の発言に関して思ったことです。
・「ロスト・ジェネレーション」的な状況に関して、そこに不平等(格差)があるならば、具体的な改善を考えていくべきであるとして、しかし「富=お金」の問題と「尊厳=承認」の問題は最終的には分けて考えられるべきことなのではないか、そして「富」に関しては、それを再配分するということが(原理的には)可能とした上で、しかし「尊厳」に関しては、それをコントロールするのがとても難しい、というような東浩紀という人の発言(であり議論の前提)に関して、自分は、なるほど確かにそうかもしれないな、と思うのだし、あるいはまたそのような前提は、様々な事象と表現を、早急に、強い力で繋げてしまう(それはたとえば「連続殺人事件」と『蟹工船』みたいなものだって、その技術があるならば、繋げられてしまう)ことに対する冷静さの表現でもあるのだな、という印象を持った。
・そしてまた「繋がりそうもない事柄を繋げ」ながら「繋がってしまっている(と思っている)事柄を切り離す」、そのような表現が、つまり「思想」や「芸術」の主要な方法論であり、役割のひとつだと思えるならば、一見(一聴)するとただの「面白い」ことでしかないような具体的な提案、たとえば「情報量が多く、選択の幅が広がってしまったことに(現代的な?)「尊厳=承認」の困難さがあるのならば、『お見合い』の可能性を考えてみるのはどうでしょう?」というような発言は、それが具体的であるという意味で、笑いを取ることができつつ、同時にそれは機能する。
・そして、そうであるならば「芸術」は、たとえば今この瞬間に、この世界のどこかでまさに「お見合い」を、「お見合い的なもの」を、実行しようとしている、そのことであるかもしれない。その「お見合い」の方法について、そのディテールについて、それをより面白くするために考えるということこそが、もしかすると現代の「芸術」について考えることであって、合同結婚式的なものはギリギリ笑えないから見て見ぬ振りをするとして、もう少し笑える方法で、時間と空間をつくりだし、人と人を出会わせて、繋げようとする。あるいは(そんな必要もないのかもしれないけれど)、それが合理性を相対化するという意味で、かろうじて批評性を保ちながら、言説としても機能するだろうと思う。