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  映像研究

梅雨の合間に考えたりしたりもすること、または「ていねいな、くらし

 
・梅雨の合間に散歩に出かけて私が考えることは「人は何をもってある写真を『ku:nel』的な写真だと思うのか」について。ここのところデジタル一眼(SONYα350/一般的にはたぶん「香椎由宇モデル」のアレです)をちょこちょこと使うようになって撮影しているのだけれども、出来上がった(モニタに表示された)いくつかの写真に対して感じる、ある雰囲気について、それを思わず「クウネル的だ」と口にしてしまったりすることがあるのです。


・ちょっと青みがかった、ニューカラー的な色味は、光沢のある紙に印刷されることとも相まって、どこか「懐かしの90年代」を彷彿させられたりするような気もするのだし、また、引きすぎず寄りすぎずの標準レンズ的な距離感は、開いたページ一面に、バン、とレイアウトされることをアフォード(死語か?)しているように思う。そしてそのような(勝手な)法則のもとに、「写っているもの」以上に「写し方」について考えてみたのならば、自分が撮った写真に関しても、器とか鍋とかが縦構図でがっつりと寄って、かつピント浅めに写っていたりすると「ああ、クウネル的だなぁ」と(何のアイロニーでもなく/完全に良い意味で)思ってしまうのです。


・ところで、高校生の頃「月刊J-フォトグラファー」的な意味でかなり毎月『ロッキンオン・ジャパン』という雑誌を購入していたりしなくもない自分にとっては、その当時チェックしていたあんな人やこんな人が、『ku:nel』とか『spoon』といった雑誌で仕事をしていると思わず、じぃっと見てしまう。ちなみに、かつて『olive』を読んでいたような読者層、あるいはメンタリティが現在では『ku:nel』的なものに引き継がれて…というような事柄はどこかで/どこでも/読んだことがあったりなかったりだけれども、そういったことともまた違った、(「クウネル的なもの」を成り立たせている)何か、があるのかもしれない(特にないかもしれない)と思う。


・あるいはそれは「写真でコンセプチュアル・アート」的なものの対局にある「表現」に対するある種のあこがれ、のようなものなのではないかな、とか思わないこともない。とかなんとか、写真を見つつ、そんなようなことを、考えたり考えなかったりすると、自然に、だんだんと、とてもていねいな、言葉づかいに、なっていきます。そして、なんだか、ちょっぴり、眠くなって、きちゃったな。




ベランダの鉢植に、雑草が生えているよ。




トマトの苗が、教えてくれること。




リビングで昼寝をするのは、気持ちがいいな。