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  映像研究

3月20日の温泉

 
・2008年3月20日。思い起こせば自分がこのような備忘録を書き始めたのは1年前の2007年3月20日。「地下鉄サリン事件が起こったその日に中学校を卒業したことによって義務教育を終えた1995年3月20日、から丁度(?)12年」であることをひとつのメモリアルかつ全く個人的なコンセプトとした雑記的なもの、というていで始められ、かつそのようなよく(自分でも)わからない理由であるのだから、当初の目的とはおおむね順調にズレ続けつつも、とりあえず「なんとなく、備忘録」であることにおいては継続しているのだから、それはそれで力なりという話もある。13年が経った。1年も経った。


・そしてまた唐突に全く別の話であるけれど、おとといだかその前だかの備忘録に引いた「温泉でも行こうなんていつも話してる」というフレーズは言うまでもなく90年代を代表するヤンサラ応援歌、H Jungle With Tの『WOW WAR TONIGHT』(正しくタイトル書くの少し恥ずかしい)という曲の歌詞の一部であって、例えばこのCDが発売したのもまた「1995年の3月15日」であったりすることは、もちろん直接的には関係がないのだと理解しつつも、しかしあれこれと書くことによってここ最近自分が問題にしようとしていることは、(あくまでも一例としてだけれども)そのようなポップ・ミュージックから、このような場面を思い浮かべることと関係があるという話もある。

温泉でも行こうなんて いつも話してる
落ちついたら仲間で行こうなんて でも
全然 暇にならずに時代が追いかけてくる
走ることから 逃げたくなってる


・そしてこのようなフレーズがただの事実としてあり、またそのような振る舞いにカタルシスを感じていた(る)状況に対して、今やいよいよ問題になっているのは(そこに至る理由はともかく)、端的に「走ることから逃げてみる」ということであって、そのような状況で例えばある人は「走っているスピードを徐々に落とす」だろうし、また別の人は「突然あさっての方向に走り出す」かもしれない。それ以外にも「踊り出す」人があり、中には「『未だすぐ隣を走り抜けようとする人』を突き飛ばそうとする」人もいるだろうが、いずれにしても、そのような状況では誰からともなく「温泉に行こう」という声が上がり始めるに違いない。「温泉だ、温泉。だって、温泉に行きたいってずっと言ってたじゃないか!」そんなわけで今やあらゆる豊かな国では空前の温泉ブームだ。…とまでは言わないまでも「走る」ことはすっかり忘れて「温泉 or die」という種類のリアリティもまたあるような気がする今日このごろ。あるいはもうこの際だから「温泉に行く」のではなくて「温泉の近くに住む」ことや「温泉を家に引く」ことまでが考えられているのかもしれない。書いていると何だかわけがわからないですけれども。



・そしてそんなような発想を「方法」に変えて行くための実践が、2008年の様々な場所で、おのおののやり方で試みられているのであれば、だからきっと「ファミリー・レストランの朝の30分」は当然その方法のひとつだ。しかしそこになんだかの可能性を感じつつも、同時にそれがどうしようもなく辛いものでしかないのは、そこに「連帯の可能性」とでも言うようなものが全くないように思えることで、もちろん、じゃあ、勢い余って「連帯の必要性」なんてことを言い出す人に対しては、慎重になりたいと言うか、若干保留にしておきたい気持ちもあるけれども、少なくとも個人が個人として表現すること(この場合もはや「表現すること」と「抵抗すること」とはほとんど同じ意味であるように思える)の大切さを理解した上でならば、その先に人と人がつながりを持つ(この場合「つながりを持つ」ことと「理解し合うこと」とはほとんど別のことであるように思える)可能性を考えたいのが今の自分だ。


・そして考えてみたかったのは、実はというか、もちろんというか「マルチチュード」的なことについてだったのです。そのような中で知った「アントニオ・ネグリの来日延期」に関しては、上記のような「発想」と「方法」と「実践」について、あるいは「個人の表現」と「連帯の可能性」について「お勉教」する良いきっかけが得られるのではないか、そしてそのことはきっと日々の生活を過ごす上で有益なのではないかと思っていたのだけれど、色々なことはなかなか思ったようにはいってくれない…ということなのか。自分としては実際のところ、アントニオ・ネグリという人が渡航できなかった経緯など詳しいことに関しては全くわからないので(「法務省」?と本当に直接どのようなやり取りがあったのかなど知るすべもない)単純に「お勉教」できる機会がなくなったことを「残念だ」と思いつつも、しかし一方このイベントに関して関係者として関わって来た人たちにとっては、きっとまた別の考えや思いがあるに違いないのだろうと思い、可能ならば、それを聞いてみたいと思う、今。3月20日。