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  映像研究

ガチョウについて

 
・引き続き2008年3月20日の出来事となりますが「アントニオ・ネグリ来日中止」の一報に界隈が騒然となっているそのときに、自分はとある郊外のホールにて「S席が13000円もするモダン・ダンス」の舞台を観ていた。関係ないかつ完全に私見だけれども「観客の65%がコム・デ・ギャルソンを着用」。

パレルモパレルモ』(1989) Palermo, Palermo 2部構成(90分+休憩+70分)
演出・振付 ピナ・バウシュ 美術 ペーター・パプスト 衣裳 マリオン・スィートー
共同制作 パレルモ黄金市立劇場 アンドレシュ・ノイマン・インターナショナル


・そして『パレルモパレルモ』という作品に関してとりたてて予習的なこともできず、しかしそういえば『西麻布ダンス教室―舞踊鑑賞の手引き』(桜井圭介・いとうせいこう押切伸一)のような本で「ピナ・バウシュ」については一定の予備知識はあったつもりでいたものの、作品それ自体には当然のこととして全く予想していなかった種類の強いインパクトがあるわけで、それは何よりもこの作品が制作された1989年において「歴史を語ること/過去・現在・未来のつながりについて考えること」とはどういうことだったのか想像してみることを要求しているように思われる(しかしその語りはぼさっとしていると置いていかれるような速度で進んでいくものだ)という、その「文学性」とでも言うべきものにあったのではないか、と必至に思い出しながら、あれやこれやと解釈してみていたのでした。


・あるいはまた違った側面として「(身体的な)パフォーマンス」性について思い起こすならば、そこにはまずやはり「手の動き」の印象があり、また「同じ身振りの繰り返し」や「強制的に回転させられること」も印象に残っている。そしてそういう動きが展開として組み立てられていく上でもっとも強く感じることは、つねに一定のタームで2〜3人の人物が入れ替わり、その中でコミュニケーション的な「事」が行わるかと思いきや、しかし一方の人物がある種ステレオ・タイプなドラマ的な心情に入り込んだと思うと(そういう身振りをすると)、もう一方の人物は「その状況と全く関係ないように思える行動」をすることで、そこには「何だかわからない変な状況」が生まれる、というようなずらされたものがずれ続ける感覚なのだと思う。


・個人的にはこの「その状況と全く関係ない行動(あるいは発言)」をする、ということが、「その状況から一番遠い出来事を探し出す」という種類のユーモアの方法に限りなく近いと一度考えてしまったならば、それはもう「笑えるものを目指す」演出とほとんど同じようなことだと思えたりしたことも面白かった。ちなみにこの場合の「面白かった」は単純に「声を上げて笑った」ということです。それにしたって「片言の日本語」は卑怯だということです。



・そしてしかし今の自分にとってはやはりこの作品の最後の場面で語られる「寓話」(調べてみたところそれはグリム童話の「キツネとガチョウ」だということだ)に、誤読も覚悟で「予言されていた現代」的なものを読み取るのも、あるいは「きっとどの時代に見たとしても『現代性』のようなものを読み取ることができてしまうこと」において、この作品に普遍性を感じとることも、それはそれで自由だということにさせていただければ幸いだ。いわく『ガチョウは今まさにキツネによって殺されようとしているのだけれども、その猶予の時間にガチョウは「ガーガー」と声を上げて祈る。そしてガチョウはその祈りが終わらないことにおいて殺される時間が引き延ばされるのであるから、その一羽のガチョウはひたすらに長く祈り続け、それを見て他のガチョウたちも一羽また一羽と祈り始める。そしてその「ガーガー」という祈りの声の大合唱が続く限りはこのストーリーは終わらない』のだという。


・ほとんど朧げな記憶(もちろん主観込みだ)で思い出すこのエンディングを、パフォーマンスの手法的な面白さとは違った意味での面白さとして、自分自身の想像力の働く生活を反映するものとして考えるというのもまた、この作品の受け止め方のひとつであるようにも思います。