&

  映像研究

なんだか鼻のあたりがつんとする、そんな季節の週の始まりの日の記録

 
・鼻のあたりがつんとするのは木の芽の香りかしらとも思うけれども、実際はそのようなロマンティックな気分ではまったくなく端的に花粉が大変なことになっている。夜中に降り出した雨も朝には止んで晴れるけれども空模様は安定せず昼には曇り。春のお天気は変わりやすく、しかしそんなことを問題にしていては登れる山にも登れないと思う。花粉の飛来とともに登山シーズンも到来する春なので。


・今日こそはと「確定申告」というクロスワード的な、ナンクロ的な遊びのために朝から平成19年度の領収証やら領収証未満のレシート(消えかけ)やらを右に左にあれこれしていたのだった。しかしこうして自分の一年間を「円」という単位で換算してみるというのもそこから気づくこともあったりするので、それはそれで面白い。例えばそれは、自分、意外と人に物贈るのな、とか(おみやげ、とかお祝い、とかほとんどが何人かで割っているのだけど)、あるいはJRのオレンジ色のカード的な領収書が束になるのも面白いし、特にそのような必要はなくとも買った本を一旦「新刊」と「古本」に分けて計算をしてみたのならば、その内訳はとても自分らしいとも思う、というようなことも面白い。そして更にそれが居酒屋のレシートともなるとその小さな用紙(消えかけ)からはそのそれぞれの宴のタイムライン的なものすら想起させられるわけで「このタイミングで『生6つ』ということは誰かが遅れてきたタイミングで全員で乾杯し直したのだろう」というように一年前の記憶を辿る自分はそのとき誰にも迷惑をかけない「ひとりマルサ」だ。


・しかしそんなことをしているものの差し当たって家に全く食料がないことに気がつき荻窪駅前へ。日々の生活の一部としてのささま書店チェックを終えたならば、いきおいその横の「丸長」でつけ麺を食す(初)。銀行に行って振込など済ませた後は本屋で「BE-PAL」を購入して「ひなげし」でコーヒーを飲みつつそれを読む。なんという優雅な生活だろう、しかしこれは何かの「復讐」ではないな、やっぱりと思いつつもすでに自分はもうすでに「バック・パッキング」に夢中だ。そして「バック・パッキング」の「バック」は「バック・カントリー・スキー」の「バック」とは違うもののようだということを知る。そして同時にシェラ・カップに込められた思想をも知る、かもしれない。


「バックパッキングはスポーツでもレジャーでもアクティビティでもない。行動のすべてに対して自らジャッジするというアティチュード(姿勢)なんだ。衣食住のすべてを備えているから、どこでも眠れる。どこまで歩いてもいいし、どこで止めてもいい。その自由を手に入れることなんじゃないかな」


・「アティチュード(姿勢)なんだ」と言われれば(『BE-PAL』の特集より/「ホーボージュンさん」のコメント)、それはもうただただひれ伏すのみだ。「登山」ではなく「バック・パッキング」、「アルピニスト」ではなく「バック・パッカー」。当面インドには行けそうになくても「バック・パッカー」。そこに何か感じたならばその考え方から何かを考えるというのもまた興味深いと思う。帰りがけに図書館でそんなようなことを考えながら何冊か本を借りる。直接関係はないけれども変わらず好きな『現代詩手帖特集版 石垣りん』なども借りる。いや、この生活者の視点から生まれる詩は、これはこれで、むしろこれこそがある種のアティチュード(姿勢)なんじゃないだろうか、などとも思ったり思わなかったり。あと「アティチュード」に語感が似ているので『現代思想』の「マルチチュード特集」も借りる。家に帰ると当たり前のように領収証の山。



現代詩手帖特集版 石垣りん

現代詩手帖特集版 石垣りん

現代思想2005年11月号 特集=マルチチュード

現代思想2005年11月号 特集=マルチチュード

ウォーキング

ウォーキング

友人のあいだで暮らす―北カリフォルニアのパーソナル・ネットワーク

友人のあいだで暮らす―北カリフォルニアのパーソナル・ネットワーク

愛と暴力の現代思想

愛と暴力の現代思想

スラスラ読める個人事業の経理―ひとりで学ぶ実務のキホン

スラスラ読める個人事業の経理―ひとりで学ぶ実務のキホン