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  映像研究

(そういえば)大学について考えてたのだった

 
・27日(日)は母校で開催されている「卒業・制作・展覧会」という名目の陽気でクリエイティブな祭(宴)へ遊びに行く。やや遅れて昼すぎに到着したならば、早速「チーム・ご意見番」と合流。夕方まで時間が許す限りにおいてファインからデザインまでをつまみ見つつ、隙を見て関係各後輩におみやを差し入れつつ、すれ違う色々な人にも挨拶。


・そして夜はある種のホーム・グラウンド・国分寺タウンに移動。名店「HO・RA・GA・I」にて新旧関係者による慰労会。自分は今、誰であれ他の人の作品にアドバイス的なことをしている気持ちの余裕などまったくないのだけれども、ないなりに、ないなりの意見交換。そしてとにもかくにも後輩の活躍(予定)は本当に喜ばしいと思う。結局朝まで数軒を梯子(後半は主に眠っていただけだ/または思い出深い伝説の名店「ビー・ハイヴ(カラオケ)」は一体いつなくなったのだろうか)する。


・色々な人が色々なことを考えた結果として、色々な何だかをつくる。そしてもしもそれが、決まりきった構造に何かを「代入」するようなことでなく、言葉で説明すること、の追いつかない、色々な可能性をもった関係性のようなものに開かれているならば、そのときその何だかの物は、実は、(往々にしてつくった本人が思っているよりも)案外面白いものになっているのではないか、というようなことを考えた、というのは他でもない自分のためのメモだ。



・ところでまた(そういえば)自分は先週『ネオリベ現代生活批判序説』(白石嘉治, 大野英士)という若干物騒なタイトルの本など読みつつ、「大学」について、あるいは「大学的なありかた」について、門外漢であると理解しつつも少しだけ考えていた。この本は、大学の経営に見られる「ネオリベ的な(?)」改革の話題をきっかけに「労働」や「消費」あるいは「心理化、と呼ばれるような意識の変化」などについて書かれた、とても興味深い本なのだけれども、これを読んでぼくが考えたことは、こと「クリエイティブ、と呼ばれるような場面での、こういう問題(もしも問題、だとするなら)を問題として立てることの難しさ」ということであって、しかしあるいはそれは、やっぱり本当は本当に「問題」ではない、全くもって自分のやっかみ的なアレなのかもしれない。


・それでも具体的にこのような場面があったとする。あるとき(以前に、偶然に、機会があって)ある大学のある専攻の著名な教員(教員として著名なのではなくて、社会的にとても有名な仕事をされた、著名な教員だったのだ)が、その専攻のカリキュラムについて説明し、その専攻を受験しようかどうか考えている学生にプレゼンテーションを行うという場面に居合わせたことがあった。そしてその質疑応答のときに「何を基準に大学の専攻を決めれば良いでしょうか」と質問した学生に向かって、その著名な教員は「教授の名前をグーグルで検索しなさい/そうすればその専攻の価値がわかるでしょう」というようなこと(ほぼこの内容の通りだったと記憶している)を答えたのだった。


・これは全くの個人的な意見であり、そしてこれは全く偉そうな、そしてまたそもそもこんなことを申し上げるアレではないと重々承知しているのだけれども、あえて言わせて(書かせて)もらうならば、自分はこの答えを聞いた時に「それは、教育をする人の発言ではない」と思った、ということ。


・あるいはこの話題はまた別の事柄で、どこかで「問題」の質が変わってしまったのだろうか。いずれにしてもたぶん現代の普通の生活の中で「教授の名前をグーグルで検索すること」はあらゆる意味で推奨されるべきことなのだと思う。なぜならば「スニーカー」や「Tシャツ」と同じように、「登るべき山」を、「読むべき本」を、自分もまた「グーグルで検索」しているのだから。しかしながらもしもそこに(もはや「不条理な」ということになるかもしれない)違和感を持ってしまったならば、それは「大学」とは何かという問題や、「大学と文化とはどういう関係であるべきか」という問題(もしも問題、だとするなら)と関係があるのかどうなのか。考えないこともない。


・あるいはその「違和感」をどうやって、明確な考えとして組み立てることができるのだろうか。またそこで組み立てるべきは論理的なものなのか、そうでないのか。考えない、こともない。


ネオリベ現代生活批判序説

ネオリベ現代生活批判序説