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  映像研究

学費あるいは授業料

・202010232111。業務を終えて帰宅する電車で敵を討つように日記を書いても良い。書いても良いと書き続けながら、気づけば2020年のフィナーレが見えつつある。このまま書き続けても良いしやめても良い。それでも「毎日書くこと」には独特の面白さがあることを実感しつつある。諸々の状況が順調に整えば、2021年こそが「書く一年」になる。そうしたら365日書いてみるかもしれない。来年のことを書けば鬼が笑う。鬼とは何か。

 

・25日が日曜日だとそれよりも早く給料が振り込まれる。23日であるところの今日、銀行Aに行き、金をおろして銀行Bに入金する。「今月も、なんとか、」と思う。同時に今月は、後期分の授業料(休学.ver)を振り込む。「今年度も、なんとか、」と思い、肩の何かが少し軽くなるのを感じた。来年度からの生活費と授業料との兼ね合いを思い出し、心新たにする。

 

・授業料ないし学費という言葉、概念、存在、実際、について考えた2020年だった(過去形)。それは自分自身の授業料というよりも、やはり自分の業務に関して発生する授業料であり、特に自分の母校をはじめ、多くの大学で「授業料をどのように扱うか」という議論が生じたことによる。その大金は、何の、どういう目的の金なのか、と問いはじめたならば、議論は進む。進むのか。深まっているのか。わからない。もしもいま自分が大学生ならば、やはり「学費を減額せよ」と何らかの声を上げているだろうか。上げているかもしれない。少なくとも友人と議論しているかもしれない(友人と議論するのが好きだった)。そしてその主張には、確かに今も、ある程度の正当性と、共感を感じる。感じるのだが。

 

・「ある程度の」と書いてみて、しかし現在の自分は、その主張に乗り切れないことも感じていた。色々と考える中で(略)、現在の学生が納得のいかない金を払うのではなく、大学で現在働いている者の賃金を減らすのでもなく、かつてその大学で学び、かつその学びや生活から得た何かを、現在の自分の存在に欠くことができない要素だと考える卒業生が、その生活を損なわない程度において、金を払うということではどうかと考えた。そしてその考えを導いた後で、自分は初めて「愛校心」という概念について考えることになる。つまり大学という組織を卒業してもなお(卒業したからこそむしろ)強い愛着を持っているとして、その心理はいかに発生するのか、またいかに持続するのか、あるいは増大するのか、などという未知の考察に踏み込むことになる。これは共同体の問題だろうか。

 

・そもそも自分の現在の労働はこの愛校心(仮)によって成り立っているのだとも考えることができる。自分が過去に良い思いをした組織に足を踏み入れることを若者に促す仕事。そのように自分の業務を捉え直したのも、授業料あるいは学費が問題となったからで、その意味では、自分の無意識(労働の動機)に、社会の情勢が光を当てたことになる。その件については、誰も得をしていないようなこの状況に感謝しても良い。このことはしばらく時々考えることになるだろう。