・このあいだ職場で話していたのは、例えば「ユビキタス」という言葉が絶妙に「ちょっと前の流行語」だとして、その「ユビキタス」という言葉は、ある環境を指し示すための言葉であるのだけれど、その環境が、全く意識することさえない誰にとっても当然のものとなったときには、その言葉はきれいに忘れ去られて行くべきもので、それは例えば10年前で言うところの「ファジー」のようなものを例に挙げるとわかりやすいのではないか、というようなはなしをしていたならば、あの、その、ファジー、ってそれなんなんですか?と、全く当然のように後輩(8つ年下)は言うのでした。
・そんな自分は今「マルチチュード」という言葉がどういう意味なのかが全くわからない。この件に関してはウィキペディアも心なしかやや寡黙だ。そしてしかし、どこを読もうが何を検索しようが最終的には「マルチチュード的な…」と言われるような日々が続けば、その言葉が自分が何かを理解するにあたって何だかの有益な概念だということに(暫定的に)しておいて、そういった言葉について調べたりしつつ、しかしとにかくとりあえず全く関係のない文脈で使ってみて(例:「最近忙しくて、食生活がマルチチュードなんだよね…」など)口に出してみることで、乗れない乗り物に乗れるようになるみたいに、少しずつ自分の(身体的な)実感とその言葉とを近づけていくような過程は、それはそれで面白い。
・そしてまた「マルチチュード」に関して、それを声に出すときに「マ」にアクセントを置けば良いのだけれど、なんとなくフラットに読んでしまうと「マルチチュード」は簡単に「マルチ中毒」に聞こえる可能性があるらしく、そして「マルチ中毒」は「マルチ商法」に極めて近い負のアウラと隣り合わせだとすれば、「マルチ中毒」という概念は「アートつまみ食い」と「せっかくだから」を信条とする自分にはむしろとても適当だと思えることも面白い。
・そんな中で「アントニオ・ネグリという人が来日する」という情報は、例えば(外タレ来日の一例としての)「ビョーク来日」とかよりも現代ではトレンディーなこととされているのか、全然そうでもないのか、考えてみるけどそれも含めてよくわからない。そしてしかしいずれにしても「東京大学」と「東京芸術大学」という教育機関が招くほどの何かならば、そこで行われることは、日本という国にとって、さぞかし有益な、国益にかなったことだという判断がなされた結果なのだろうなと、そういうふうに考えてみるというのはどうだろうかと思う。
- 作者: トニネグリ,Toni Negri,廣瀬純,榊原達哉,立木康介
- 出版社/メーカー: 月曜社
- 発売日: 2007/05/01
- メディア: 単行本
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