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  映像研究

2020年の秋から冬

・202010171841。昨日は秋だが今日は冬のような一日。天気を調べれば12°だった。家の中で靴下を履きさらに親戚の叔母さんが作ってくれる(季節ごとに新作が届く)ルームシューズ的な厚手の靴下を重ね履きして作業。リビングにはホットカーペットを出す。膝掛け的な毛布を洗濯。まるで冬の準備をしている。ファンヒーターを試しに動かしてみた。アラジンストーブにはまだ火を灯していない。このデスクで作業をしている記録として写真を撮ってみる。良い雰囲気の写真をアップロードすることは難しい。なぜなら生活はいつでも良い感じではないからだ。「これです」と写真が示す。

 

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・朝から気になっていたことの検索をメインに、コピーを読み、メモに少しだけ書いてみて、最終的に夕方に一件メールを送る。色々と気になっていた動画を流しながら読んだり書いたり調べたりしている。今日の作業の全てがこれだ。そしていま日記を書いても良い。今日は「主客合一」という言葉に焦点を当ててみて、それは西田幾多郎が創った概念だということだけれども、それを写真を撮影する行為における、主体と対象の問題として考えられないだろうかと、ぼやっと考えている。シャッターを押す私とレンズの向こうの存在が未分であるような事は撮影されることによって生じるのではない。見ることの中にあるのだろうか。

 

・最近会った人たちとの別々の会話から、大学の卒業制作について考えることが何度かあった。「卒業制作は“終わり”ではなく“はじまり”なのです」というのは、芸術系大学の教員の多くが口にする台詞だが、何人かの人と話していて、何人かの人の卒業制作を思い出したとき、頭に浮かぶのは「卒業制作とは“呪い”である」というテーゼで、おそろしいことだけれども、どれだけその制作=作品から離れたところで何かをしているようでいても、ふと気づいたときには影のように、それはある。あるいは卒業制作を中心としてぐるぐると回り続けているようでもある。これが研究系の卒業ならば、「卒業論文は呪い」ということになるのだろうか。わからない。いずれにせよ自分は大学を卒業する際のリーフレットに以下のような一言を寄せた。「最近は見ることとその周辺に興味があります」と。そしてその「最近」は、今もずっと続いているのかもしれない。中断。