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  映像研究

夏の真ん中と流れるもの

・201907261023。初台のカフェにて業務の前に少し勉強しようと思うが、その前にメモ。夏の真ん中は梅雨が明けるぎりぎりもしくは明けた瞬間だと思う。それは今かもしれない。だから「夏になったらしよう」と思っていたことや「こんな一日を過ごしたい」と想像していたことを惜しげも無くやってみるのが良い。しかし思い出すのは大抵図書館とか本屋とか喫茶店とかだ。そういう場所でなるべく何にも邪魔されずに考える。あるいは何も考えない。瞑想としての夏。

 

・本屋で田島列島という人の『水は海に向かって流れる』という漫画を手に取ってみて、何かの予感とともに購入する。面白く味わい深く続きが読みたい(オンラインでも少し読めてしまったが単行本でまとめて読みたい)が、何よりもこの「水は海に向かって流れる」という題が良い。なぜ良いのか。その一文を声に出してみたならば、合唱曲の一フレーズのように背中が伸びるようでもある。まったく日常的な出来事(しかし日常とは何か)が描かれているけれども、一方で「流れる」のは、普段の生活の中では「見えない」何かなのだろうか。「水は海に向かって流れる」という言葉の背後には「いつも」「いつでも」「どんなときでも」「どんな場所でも」という強い力が予感されるようでもいて、昨日の夜に一人で電車の中で漫画を読み、読み終わり顔を上げて、ふと周囲を見回してみて、何か感じ入ってしまった。

 

・あるいは「下宿のアパートに大学教授や漫画家や若者が住んでいて時々一緒にご飯を食べたりする」という設定から、あの木皿泉『すいか』を思い出したということはある。何度でも思い出すのは2003年の夏で、テレビでは『すいか』が毎週放送されていた。ある種のデッドエンド(というには重すぎる一見行き止まりに思えるエアポケット)とその先の一歩が書かれた『すいか』からも15年以上が経っていることをまともに考えようとすると混乱するが、おそらくはあの時あるいはそれ以降『すいか』を見た人は、各自でその先の一歩を更新しようとするのだろう。だから『すいか』の先に『水は海に向かって流れる』があると考えてもいいのではないか。「流れる」について考えている。

 

・それは「善いもの」だけではない。「善い」や「悪い」という基準とは別のところで流れているのかもしれない。無邪気な振りでその流れを何とか肯定するためのアクロバティックを創造するような表現が好きだ。中断。

 

水は海に向かって流れる(1) (KCデラックス)

水は海に向かって流れる(1) (KCデラックス)