&

  映像研究

平時、声

・水曜日は朝からフランス語の授業。いつもモーニングとして立ち寄るドトールコーヒーでは明らかに人が少なく、東京の変化を思う。満員電車を避けた時差出勤なのかそれとも職場での感染を防ぐための在宅勤務か。そのような明確な判断がなくとも、そうした意識がうっすらと共有された結果、都市の光景が変わるということなのか。「過剰な反応ではないか」と「楽観的に過ぎるのではないか」という両極の考えに揺れながら、目には見えないものを恐れる。「経済的な損失」ということを思い、どうすることもできない、と思う。9年前のこの季節の時の感じを思い出す。既視感。

 

・午後から職場で会議。職場でも議題そのものではないが「今後の予定の変更、の可能性」が話される。必要な用事を済ませて今日はなるべく早く帰宅しようと思った。帰りがけにどこかに立ち寄って何かを見るのではなく、何かに触れて何かを作りたいと思う。気を紛らませる仕方にも色々なバリエーションがある。そして夕方帰宅。年末に届いた熊本の新米を近くの精米機で精米。ピクルスを作るための野菜を買ってみた。手を使って生活をしていないと、意識が「見えないもの」と「抽象的な概念」のことで埋められてしまうような恐れがある。夕食の後、家族に向かって「怖いなぁ」と声に出してみた。いつからか春は見えない不安を抱えた季節だと思うようになってしまった。その不安はある程度ならば、心地よくもあるのだけれども、時々その不安が風景の中に存在するように感じることもある。人の声にはそれに抗する力がある。文字ではなく声。目に見えないが確かに響く声について。

 

・『水は海に向かって流れる』のwebでの連載を、毎回80ポイント(つまり80円)で読んでいる。二ヶ月ほど忘れていたから1月と2月の回を読む。人体のバランスに忠実に描かれた絵ではないのにもかかわらず、どうしてこのように場の雰囲気を想像することができるのだろうか。匂いがする、声が聴こえる、時間が流れている。描かれた出来事を通して、人間の身体の重みを想像する。自分ではない他者の身体の過剰さ、驚きについて。