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  映像研究

再開する/しない

・201906081038。土曜日で休日。丸々一日家で自分のことができる時間の幸福。業務における「授業」「撮影」「編集」「会議」そして「SNS」からも、様々なことを考えることができるが、それは流れていってしまう。自分にとって「残るもの」としての読むことと書くことを再開しようと思う。一方で今週の行き帰りの電車の中ではずっと『政治的省察』を読んでいて、自分の研究と接続するならばアレントの『人間の条件』も丁寧に読み直さなければいけないなと思っている。思ってはいるのだけれども。

 

・年金のことが気になって久しぶりにインターネットで色々な人の考えを検索してみた。年金について、多くの他の人と同じように(かどうかわからないけれども)「無理なのかもなーと思いながらも結構頑張って払い続けてきた」という自覚を持っているのだから、給付の条件について払い始めた当時と全く違うのは納得しがたいという心情がある。「リスクの大きな運用で15兆円の損失」という見出しをそのまま「貰えるはずの15兆円が消えた」という事実としてに受け取って良いものなのかは勉強中だが、いずれにしても不信と不安は残る。2000万円を貯金しなければならないのだろうか。2000万円を目指して多くの人が博打のような投資をすることを望んでいるのだろうか。「自助」とは具体的に何を言っているのだろうか。家族だけでなくもう少し緩いかつ気持ちの良いアソシエーションのようなことを考えるべきなのだろうか。賃料を払い続けるよりも家を所有していた方が良いのだろうか。賃料と固定資産税はどちらがどうなってどれくらいのアレなのだろうか。勉強したいが難しいならば誰かに相談したい。相談するのにもお金がかかるのだし、相談先の「ファイナンシャルプランナー」は大抵投資を勧めてくるだろうという予想もある。それならばまずは「信頼できるお金と法律に詳しい人」を探した方が良いのだろうか。そして何より食べるものを自給することを考えたい。家でなくとも「土地」が「農地」があれば良いのだろうか。どれくらいの広さの農地があれば、どれくらいの作物が収穫できるのだろう。ひとつの農地でどれくらいの種類の作物を作れるのだろう。やはり米は難しいのだろうか。どれくらい学べば実践できるのだろう。具体的な問題は浮かぶ。あとはそれを実行する時間と継続する意志が必要だ。

 

・「老後」という言葉はなんだろうか。「老」の「後」は「死」か。「老」の最中、真っ只中にあって、生きている人は何をしているのか。先日祖父が亡くなった時に、妹が幼い頃書いたらしい「長生きしてお仕事頑張ってね」というブラックなお手紙が発掘されて家族を湧かせたが、祖父はおそらく88歳くらいまで自分の制作(work?action?)と教えることに関わる労働(labor?本人がそれをなんと呼ぶかはわからないが)を続けていたという事実と向き合い、あらためてその事実に圧倒されつつ、そうしたwork/action/laborを歳若い頃から継続して持つことができるということの凄さを思った。「老」に対して、それが「後」であろうが「真っ只中」であろうが、labor、work、actionを一つずつ取り上げられる、あるいは手放す、諦めるようなイメージを持っている。だから身体が衰えながらもそれを持ち続けることに感動する。

 

・自分は30歳くらいから少し年長のいわゆる「先輩」がどのように生活しているのか、何を考えているのか、ということを気にして、そうした機会を何よりも貴重だと思っていたけれども、今後はその「先輩」は60代や70代にまで視野を広げることになるだろうことも予想される。そのときその人の中でlabor/work/actionはどのように在るか。アレントの定義ならば(山本理顕という人の孫引きだが)「laborは消えてしまうがworkはこの世界に残るもの、あるいはこの世界を作り、この世界の一部となるもの」だった。そのことをそもそも一体どこまで真剣に受け取ることができるのか?(現代においても考えることができるのか?)という問題があり、さらにはコンピュータとデジタルデータとネットワークが人間の生活と切り離せない状況において、workはいかにして可能か?という問題がある。厳密に言えば、そうした環境でlabor/work/actionはどのように組み替えられていくのか(いるのか)という問題があるのかもしれない。自分はつい「データとしての成果物=labor」「物質的な成果物=work」という区分を持ち出そうとしてしまうがそれはあまりにも短絡的かつ歪んだ認知に由来するのだろう。

 

・農業のことも考える。アレントが『人間の条件』で労働について書いている箇所で「農業」は何よりも「公的重要性をもつ職業(ad hominum utilitatem)」とされる。山本理顕『空間の権力/権力の空間』を読んでいると、仕事workの価値と現代(の建築)にも応用可能な意味に焦点が当てられているから、労働についてはその影として読むことになるが、アレントのテキスト自体は「労働と物質」あるいは「労働と生命」について、別の角度からも書かれている。たとえば「パン」が世界における「平均余命」が短いことに対して「テーブル」は人間の数世代以上も生き残る、と書きながらしかし、ロックの言葉を引用しつつ「耐久性の低いもの」は「人間の生命過程そのものに必要とされるもの」であるとして、「生命」「自然」という概念にも思考が拓かれてゆく。

 

自然にも、また自然がすべての生あるものを投げ込む循環運動にも、私たちが理解しているような生や死はない。人間の生と死は、単純な自然の出来事ではない。それは、ユニークで、他のものと取り替えることのできない、そして繰り返しのきかない実体である個人が、その中に現われ、そしてそこから消え去ってゆく世界に係わっている。世界は、絶えざる運動の中にあるのではない。むしろ、それが耐久性を持ち、相対的な永続性をもっているからこそ、人間はそこに現われ、そこから消えることができるのである。いいかえれば、世界は、そこに個人が現われる以前に存在し、彼がそこを去ったのちにも生き残る。人間の生と死はこのような世界を前提としているのである。だから人間がその中に生まれ、死んでそこを去るような世界がないとすれば、そこには、変化なき永遠の循環以外になにもなく、人間は、他のすべての動物種と同じく、死のない無窮の中に放り込まれるだろう。ニーチェは、存在の最高原理として「永劫回帰(ewige Wiederkehr)を確信したが、生の哲学の中で、このような確信に到達しないものがあるとすれば、それは、ただ自分の無知をさらけだしているにすぎない。

ハンナ・アレント『人間の条件』ちくま学芸文庫、p.153

 

自然の循環運動が、成長や衰退としてはっきり現われるのは、ただ人間の世界の内部においてである。成長や衰退も、生と死の場合と同じで、適切にいえば、自然の出来事ではない。成長と衰退というのは、自然界全体が永久に回転している疲れを知らない絶えざる循環の中では、やはり、ありえないことだからである。たとえば、自然の産物であるこの木やあの犬を個体として考え「自然的な」環境から私たちの世界に移したときにのみ、それらは成長し、衰退し始めるのである。自然は、人間の肉体的機能の循環運動を通して、人間存在における自然を明示する。第二に、自然は、人工の世界を老化させたり、衰退させたりして、それにたえず脅威を与える。これによって、自然は、人工の世界においてもその存在を感じさせるのである。この二つのこと、すなわち人間における生物学的過程と世界における成長と衰退の過程に共通する特徴は、それらの過程が自然の循環の一部であり、したがって無限に繰り返されるということである。だから、これらの過程を扱わなければならない人間の活動力は、すべて、自然の循環に拘束されており、適切にいえば、そこに始まりもなければ終わりもない。仕事は、その対象物が完成し、物の共通世界につけ加えるばかりになったとき終わるのであるが、これと違って労働は、常に同じ円環に沿って動くのであり、その円環は生ある有機体の生物学的過程によって定められ、この有機体が死んだときはじめてその「労苦と困難」は終わる。

ハンナ・アレント『人間の条件』ちくま学芸文庫、p.154-155

 

 

・「人間の世界の内部」と「自然」は相対するものとして位置づけられるが、このとき労働は「自然」に、言い換えれば「人間の世界の内部」とは異なる領域(それを外部と言えるのか?)に触れている、ということなのだろうか。しかしその労働は単に「労苦と困難」なのではない。アレントがその後書く「繁殖力」と訳された語は、労働に別の光をあてている。

 

人間による自然との新陳代謝の繁殖力というのは、労働力の自然的余剰から生まれるのであるが、この繁殖力にも、やはり、自然界の至るところで見られる豊かさがある。労働の「至福と喜び」は、私たちがすべての生物と共有する生きとし生けるものの純粋な幸福を経験する人間的様式である。そしてそれは、人間も、他の生物と同じように、自然の定められた循環の中に留まり、甘んじてその循環を経験できる唯一の様式であり、ちょうど、昼と夜、生と死が、相互に交替するように、人間も、それと同じ幸福で目的のない規則性をもって、働き、休み、労働し、消費することのできる唯一の様式である。労働の労苦と困難は、自然の繁殖力によって報われる。いいかえると、「労苦と困難」によって自分の勤めを果たしたものは、将来、子孫を残すことによって自分もまた自然の一部に留まることができるという静かな確信を抱くのである。

ハンナ・アレント『人間の条件』ちくま学芸文庫、p.163-164

 

生命の祝福は、全体として、労働に固有のものであって、仕事の中にはけっして見いだされないものである。たしかに仕事を完成したあとにも救いと喜びが訪れる。しかし、その時間はどうしても短い。だから、これを、労働がもたらす生命の祝福と混同してはならない。生存手段の生産と消費が結びついているように、労苦と満足感は、互いに密接に結びついている交互に生起する。労働の祝福はこの点にあるのである。したがって、快楽が健康な肉体に付随するように、幸福は過程そのものに付随する。(略)この幸福というのは、幸運とは全く異なるものである。幸運とは、まれなものであり、けっして永続せず、追求することもできない。というのは幸運は、運に依存し、チャンスを与えかつ取るものに依存しているからである。もっとも、多くの人びとは「幸福の追求」の過程で幸運の方を追いかけ、それにめぐり会ったときでさえ不幸になっている。それは、彼らが、運というものを、まるでそれが汲めども尽きぬ豊富な「よい物」であるかのように、保持し、享受しようとするからである。苦痛に満ちた体力の消耗と喜ばしい再生という定められた循環の外側に、永続的な幸福はない。

ハンナ・アレント『人間の条件』ちくま学芸文庫、p.164-165

 

 

・「永続的な幸福はない」は言い切られてしまうと寂しいが、「ないのかもしれない」「ないのだろうか」と考えさせられる。マルクスを読む宮沢章夫のようにつっこみを入れながら読んでみたならば、「というのは幸運は、運に依存し、チャンスを与えかつ取るものに依存しているからである」のくだりは、それが当たり前のことを直裁に書いているという点でなかなか味わい深く、あるいは「それにめぐり会ったときでさえ不幸になっている」の部分からは、宝くじに当選した人の転落人生的なドラマが思い浮かぶ。という「見立て」はさておき、ここで「労働」と「幸福」には特別な結びつきが与えられる。「自然の循環」と「繁殖力」がキーになったこの結びつきにおいて、労働としてイメージされているのはサーヴィス業のような何かではなく、端的に「農的労働」と捉えることができるのではないか。では「(農的)労働」の喜びは、現代においてlabor/work/actionとどのように関わるのかという問いもあり得る。そしてそのような喜びが価値の基準の中心に置かれてもよいのだと思う。

 

・一方で写真という現代的な問題、イメージを描き出し/残す行為が、こうした問題とどのように関わるのか、いや関わらないのかという問題もあり得る。「人間による自然との新陳代謝の繁殖力」「自然界の至るところで見られる豊かさ」「私たちがすべての生物と共有する生きとし生けるものの純粋な幸福を経験する人間的様式」などの部分を読みながら、ふと清野賀子の写真を思い浮かべてしまうのは、もちろん自分の関心に依るものであるにせよ、彼女の写真による実践が、ここでアレントが書いていることを現代において捉え直してみたときに想起される、現代の人間の生き様や思考(の断片)を掬い取るような活動であるように思えるからかもしれなかった。

 

・さらには写真と「物」の問題もある。『物の体系』から仕事をはじめたボードリヤールの「物」は「消費の記号」として議論の土台になるのだが、その『物の体系』において「物」は記号の体系から脱落する可能性を仄めかされてもいる。「かつて」の「物」や「家」を「存在」として捉える視点から出発している(「古き家具はまだその具体的な象徴であった」)。しかしたとえば「自然の木、人工の木」という項目で書かれているように、ーというかこの「人工の木」という語を普通に受け入れるようになった、ということが言いたいことのすべてであるようにも思われるがー、「木」と「木から生み出される家具」の、それ自体が存在であるということの価値は、「人工の木」が記号として流通することによって相対化される。あるいはその「人工の木」に巻き込まれる。「かつて」の「象徴性」が失われて、別の(消費社会における)「象徴的なもの」として受け取られる、ということなのだろうか。では、そうした二つの「象徴」の間を揺らぐ「物」を写真というイメージに写す/移すこと、写真というイメージしてしてしまうことには、どういった意味があるのだろうか、と無理矢理にでも自分自身の研究に引き寄せて考えてみる。

 

・別の入り口から入って、考えを展開してみる。