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  映像研究

言葉を学ぶ、dans la vie

 
・具体的にはそれはフランス語の初歩の文法を学んでいるということだけれども、いまの自分にとっては何かそれが別の場所へ行くための細いつながりのように思っている。なぜいまさら、と自分でも思いながら、あの今の自分には決して支払えない大学の授業料の中に含まれていたのに、とか、考えないこともないけれども、仕方がない。終わってしまった時間に、その時間に夢中になっていたことがある。そうして多くのことを「仕方がない」と思いながら、いまもう一度「je suis・・・」とか言っている。毎週水曜日にはフランス語を勉強している。7月になったらそれは一度終わり、復習をするだろう。そうしてまた継続する。生きている限り少しずつフランス語の知識と経験を増やし、いつの日かフランス語の本を読みたい。そう思ってしまった。


・今日ふと雨のウェンズデイ、どういう繋がりか、高尾での日々のことをまとめてごろっと思い出してみた。2008年から2013年のあいだ、自分にとってそれがどういう場所であったか。今思い返してあの時間がどういう時間であったか。何を学び、何を感じたか。何人かの(何人もの)顔が浮かんでくる。声の響きを思い出すことができる。2011年の前後でその響き方は異なるが、いずれにしても、それは自分の生きていた時間の中で特別な濃度を持っていた。自分は確かに住まうことに成功したのだと思う。


・別の話。2000年に書かれた松本圭二という人の「フィルム・アーカイヴはヴィデオを救えるか」という文章を発見して、それは一度読んでいたのかもしれないが忘れていて、しかし今の自分にとって重要なテキストだった。このように「フィルムの物質性」への拘りを基点にして書かれた文章を読みたい。その拘りをもって思考を停止するということではなく、しかし確かな実感から書かれた文章を読みたい。中断。