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  映像研究

押し寄せる、あるいは押し流される

 
・5月から6月は一年で一番穏やかに過ごせる時期だと思っていた。だけれどもそんなことはない。同じところで同じようなことを同じような気持ちで続けたいと思っているだけなのに、それを難しくさせるようなことはいつも起こり続けている。そのことをどう言えるか。出来事一つ一つの重要性あるいは何でもなさを数珠のように繋いでみても、その緊張感を指し示すことにはならない。次々に色々な人の顔が浮かんでくるあるいは声が聞こえてくるがその一つ一つに正面から応答することは難しい。顔は次々に移り変わるのだった。人の顔を見ることは好きだし声を聞くことも好きだけれども、その他者が他者であることにふと気がついて意識してしまい圧倒されるような気持ちもある。こんなにも自分ではない人がいるのか、と。尚且つ一方的に見ることに留まらずその自分ではない人は自分の正面に現れる。


・9日はアテネフランセ松本圭二のサインをもらいに行く。「話を聞きに行く」と言うこともできるが、むしろ「サインをもらいに行く」という方がしっくりくる。もう10年以上も『アストロノート』に書かれた言葉に特別な意味を感じて、その詩集を枕元に置いていた。最近は読み直すことも少なくなったけど、いつでもその言葉を読めば多分大丈夫と思える本が何冊かあって、自分にとって『アストロノート』はずっとそういう本であり続けた。そして自分が「散文」ということを考える上でのひとつの参照点でもあるような詩を書く人が、どのような言葉をどのように話すのか、とても興味があった。だから印刷された本に著者の印が書かれることにも特別な意味を感じる。


・散文、そして散文的な写真ということを考えたとき、高橋恭司という人の写真は自分にとって同じように特別にある。あるいは清野賀子という人の写真も変わらずに特別な意味を持ち続けている。その特別さは一方でその言葉や写真だけでなく、その人がどのような心持ちでその言葉や写真を残したと想像されるかと切り離せないとしても(インタビューなどマスメディアを通じて知った情報がバイアスになっているとしても)自分にある印象を形成している。それはたとえば「個」であり「孤」であるということ。まず自分が見たものを自分に返す、そうしなければならない理由があってそうしているということが、言葉や写真に染み通っているように感じる。それは表現だけれども表現ではないかもしれない。表出ではあってもコミュニケーションではないかもしれないということ。


・コミュニケーションのネットワークが強固にあり、同時にそれは内面化され、管理と一体になり、やさしい命令が浸透しきって、その外部を想像することすらできない環境にあって、どうすれば「静かな空間」を仮設することができるのか。それは継続的な問いになる。他者がいても良いのだ。むしろ「個」であり「孤」であることをやめないままに、他や外と触れる場を構想すること。


・全然違う種類の触発について。映画館でウェス・アンダーソン犬ヶ島』を観て、それがとても良かった。自分にとってのアニメーションの概念が更新され、映画を観るときの姿勢が改められる。絵とリズム。高校生の頃に今はなき六本木シネ・ヴィヴァンのレイトショーで『真夏の夜のジャズ』という映画を観たときに、映像と音の与える高揚感を知った。映画館は静かに踊っても良い場所だと思った。次々に現れ続ける映像と音に気持ちを高揚させ続けられるということの不思議を体感した。思考とは別の力の感受。『犬ヶ島』を観てそのことを思い出し、同時にそれが映画の力であることを再考した。DVDで見返したいとも思うが、同時にたぶんそれは映画館でなくては感じられないのかもしれないと思う。全然違う種類の思考。