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  映像研究

冬のある日

・201912061414。職場に行く前に少しだけエクセルシオールに寄り書いておく師走の記録。

 

・今朝は家で少し作業するつもりでいたが、ふと思い立って新宿K'sシネマ「東京ドキュメンタリー映画祭」の10:00からの回へ。中編3本を鑑賞した中でとりわけ川田淳監督『石山さん』に強い印象を受けた。ほとんど語りの力だけでひとつの映像が魅力を持つことを知る。そういえば数日前に石井正則という方が8×10のカメラでハンセン病療養所を撮影しているということを知り興味を持った。この方の写真の展示を見るために、ずっとタイミングを作って行きたいと思っていた全生園に行ってみようと思う。子供の自分にとってその場所は生まれて育った町にたくさんある病院のひとつに過ぎなかった。そう認識していた。免許取り立ての原付の練習したりする場所だった。けれどもその後色々なことを知り、あらためて今その場所を訪れてみたいと思う。

 

・その後ベルクでジャーマンブランチののち、初台オペラシティでカミーユ・アンロ『蛇を踏む』。興味深くはあるが、いまの自分にはそこから考えを始めることが難しい展示だった。数年前に同じ場所で見たサイモン・フジワラ、水戸で去年見たヒト・シュタイエル、あるいは大阪で4年くらい見たティルマンスとも近い印象。現在の美術表現としても倫理的な態度としても正しいのだと思うが、自分がそう思うことは一体なんなのだろうと、ぽかんとする。あるいは映像メディアを用いてシステムやネットワークを擬態する批評的な作品のあり方に対して自分はある時期以降かなり懐疑的に思っている。誰かがやるべき仕事なのだろうけれども。

 

・言葉はどうか。昨日ブックファーストで購入したのは松本圭二『松本悲歌』。そういえば去年アテネフランセで『アストロノート』にサインを貰ったのは良い思い出。帰りの電車の中で読む。全然終わらずまだまだ読むことができて嬉しい。松本圭二の詩にも近い印象がある。アッサンブラージュ。映像メディアの技術的な条件を前提として、なおかつ「すべて」や「起源」を志向する意識を感じさせること。しかしそうした欲望もユーモアによって相対化される(頓挫する)こと。リズムがユーモアを生むこと。引用とズレがグルーヴのようなものを感じさせること。しかし自分が松本圭二という人の詩を面白いと感じることはどういうことなのか。

 

・とここまで書いてみて自分は「作品」と「批評」について、または「批評性というもの」について、大した確証を持っていないということに気がついた。そのあたりは忘年会で誰かと話をしてみたいところ。明日は猛烈に寒くなる予報。業務のために中断。

 

 

松本悲歌: 普及版

松本悲歌: 普及版

  • 作者:松本 圭二
  • 出版社/メーカー: 航思社
  • 発売日: 2019/11/28
  • メディア: 単行本