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  映像研究

「読むことを学ぶ前に、見ることを学ぶこと」

 
・何度でも繰り返し口に出して、何度でも考えようと思う「読むことを学ぶ前に、見ることを学ぶこと」という言葉は『ゴダール・ソシアリスム』の中の3つあるうちの真ん中のストーリーの中で(私見ですが)沢尻エリカみたいな女の子(というには20才という設定だけれども)が話す台詞の中にあって、今シナリオを読んだならば、そこにはそう書いてあるけど、実際の字幕ではもう少しタイトな言い回しだったような気がしないでもない。しかしいずれにしてもそのフレーズと、その「話されるかんじ」を、そっくり持って帰ってきたような感覚がある3月20日の備忘録。朝から職場の方の結婚式に行き、夕方から間に合うだろうかと吉祥寺バウスシアターで『ゴダール・ソシアリスム』2度目の鑑賞。何度だって観たい。テレヴィジョンとUSTREAM以外にも映像は沢山あるということを当たり前に確認したい。「読むことを学ぶ前に、見ることを学ぶこと」について考えながら作られている(撮影され・繋がれ・映し出されている)映像はきっと、沢山ではないなりに、色々なところに(もちろんゴダールという人が作ったもの以外にも)あるのだ。現実を写したものを任意に切断し再構成すること。「大切なこと」はそれが大切なのであるから、もしも何度でも繰り返した方がよい場合は、何度でも繰り返す。「情報」は一度読めば良いけれども、繰り返し見るべきものもある。その繰り返すリズムが詩や音楽になる。



・それで「見ることを学ぶ」ために見に行く。明日から西日本に観光及び社会科見学の旅行に行くことが決まった。順調に行けば広島に滞在しているT夫妻と合流して山口県上関町という場所に行く。祝島という場所にも行くかもしれない。この数日色々なメディアでは「疎開」というフレーズがおそらくは60年ぶりに大流行していて、それについての是非(?)が問われたり、それについての是非を問うことの是非が問われたり(面倒)している中で、今「西に行く」と言ったならば、それはもちろん「それは疎開なのですか?」と訊ねられることは、それはもちろんそうなのだろう。それに対しては「はい」でもあり「いいえ」でもあり「ノー・コメント」(ゴダール・ソシアリスム)でもあるけれども、ともかく(人がどう考えようと/当たり前だ/人はいつもバラバラに色々なことを考えている/しかもひとりの人が同じ方針で考えているわけでもない)自分にとって、その観光及び社会科見学の旅行は「見ることを学ぶ」という意味においての「アクション」なのだし、今起こっている出来事に対しての、テレヴィジョンと会話するとかではなく正しい意味での「リ・アクション」なのだと考えている。



・そして同様に「見ることを学ぶ」ために「西」ではなくて「北」に向かうという判断をしている人もいて、その「リ・アクション」の違いを面白いと思ったりもする一方で、自分が少しだけ落ち着いてきたのかどうなのか(あるいは全然そうではないのかもしれない)、今整理できてきたことは、自分がずっと考えている「システム」についての様々な人の様々な認識の違いが、この期間、そして恐らくはこの先の生活をどう送るかに関わってくるのだということで、つまりそれがずっとわからなかった「『消費』によって日本を復興する」という考え方への違和感なのだけれども、物凄く(あえて)単純にいうならば、そのように(『消費』によって日本を復興する、と)考えている人というのはつまり、2011年3月10日までの社会のあり方は「概ねオッケー」だったのだと思う。「そうは言っても良い世の中じゃないですか?」(だっけ?/言い回しは忘れた/けど缶コーヒーのキャッチ・コピーだ)じゃないけれども、つまりそのような、広い意味での「寛容な心」で社会や国や、もしかしたら自分のあり方や何かを考えていたのではないかと推測してみた。そして、だから、そのような人たちは「消費」によって作られていた「社会」を、また「消費」によって元の状態に近い状態に戻すことを目指すのだろうと思う。単純に言って。そして、いつのときも「寛容な心」それ自体は大切なものなのだとも思うけれども。



・それに対して自分が、かなり、完全に、ほぼ100%違う認識を持っていると思うのは「2011年3月10日までの社会や国はそもそも全く良くなかった」ということで、だから缶コーヒーのキャッチ・コピーに不愉快な気持ちになったのと同様に、今この状況において「『消費』によって日本を復興する」という考え方には全く賛成できないのだった。「そうは言っても良い世の中じゃないですか?」の「そう」の中には「原子力発電所が50基以上存在する」ことが確実に含まれていると自分は考える。だから構文は「原子力発電所とかは50基以上存在するけれども、それはまぁそれとして、良い世の中じゃないですか?(美しい国だし礼儀正しいし日本最高/括弧内は勝手なアレンジ)」という文章になるのだが、これは全く個人的な意見ですが、そんなふうに考えている人とは呆れて(絶望して)ちゃんとした会話が出来ないと思ってしまう。そんなもの良い世の中なわけないじゃないか。そしてそのつづきを考えたときに、しかし、だから、これはとてもニュアンスが難しいことだけれども、「今すぐ原子力発電所を数台(あるいは数十台)止める」ということも勿論意味があるだと思うけれども、それよりも自分が大切だと思うことは「緩やかに原子力発電所はなくても活動していける社会の仕組みや個人のライフ・スタイルの見直しをはかる」ということなのであって、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という一瞬真理かと思うような俗説に対して、強いて言うならば「低温火傷の構造と危険性」を自由研究することに決めた。



20日のつづき。映画鑑賞後国立で地震以来の友人夫妻と会食。もちろんこのような時であるから、地震直後と、地震以来の日々の話が中心になるものの、当たり前だけれども、その話す内容や、話し方は、普段と変わらない部分もある。そういう会話と会話するために集まる場所の重要性を感じつつ、久しぶりにビールを3杯飲んで帰宅。



ええ、もちろん綱領(マニフェスト)は必要よ。


二十歳であること。
理にかなってること。
希望を抱いていること。
政府が間違えても正しくあること。
読むことを学ぶ前に、見ることを学ぶこと。


超クールでしょ?


(『ゴダール・ソシアリスム』第2楽章より)