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  映像研究

諸々

・時間には切れ目を。単位も数字もそのためにあるのか。この10月を見送って新しい時間を、洗いたてのシーツのように敷きたい。

 

疲労を認め、認めることを許し、その先にあるはずの心身の健康はいかなるものか。身体は刻々変化する。周囲の環境も変わる。それはいったいどういうことなのかと思考以前の問いが浮かぶ。生きている者は生きている別の個体のありように学ぶことが多くある。先に生まれた者に学ぶことはもちろん、後から生まれた者の生きる様に学ぶことはたくさんある。けれども学んだことのほとんどは消えていく。それを押しとどめておきたいと思う。思いながら見ることしかできない。

 

・服を着替えながら生きている不思議を思う秋。気に入って着ていた身に合う衣服を、もうこれではない、これを着ていては気持ちが悪い、と思うことを、見過ごさないようにしたい。選び取った一つの衣服を、ある種の責任を持って着続けることの重要性を持ち続けながら、同時に、華やかにあって他者を強く惹き寄せたいと思う年齢を通り過ぎてもなお、私の様子はこのようではない、もっと別の新しい様があり得る、などと感じること。それは可処分所得の僅かな余裕と都市生活の必然か。いずれにせよそれは自分の問いであり得る。

 

・午前は家で2時間程度勉強。午後から夜まで職場で面談業務。夜にはかつて学生だった人が制作した映画を観に行く。

 

・一つの作品が存在するまでには無限に近い「判断」がある。生活の中で何かを知覚して、これであると思い、またこれではないと思う。偶然流れてきたものを引き寄せあるいは排し、数ある中から選び抜くこともする。そして自分の仕事をつねに省みながら全身体を動かす。そうした結果として、生命ではない、しかしある意味で生命にも似た何かが存在する、ということ。帰りながら、人が作品をつくるとはどういうことか、と考えていた。

 

・別のこと。池袋のレイトショーというシチュエーションが、記憶を突(つつ)き、感触や感情を含めた過去を引き出す。夜も映画館も未知の空間としてあった完全な幸福を思う。覚えている。アントニオーニ『欲望』と『砂丘』を2本続けて見て、時々眠りながら光を浴びる時間があった。「分からない」と思いながら、しかしその断片に惹かれる。「分からない」ものがあることは安心でもあった。