&

  映像研究

写真の整理、感覚

・202310021614。自宅で。

 

・一週間ぶりに何も予定がない状態で過ごす。人と会って話をすることが先週から続いていたから、一旦切断してみる。その上で無為を堪能するのも良い。

 

・しばらくのあいだ現象するだけになっていたGW690Ⅲで撮影したネガとベタ焼きにメモを付け直す。2018年12月にカメラを購入して以来、ブローニーフィルムで約80本を撮影していた。半数は2019年。その後は一年に10本程度。この期間はちょうどコロナ禍でもあった。集合写真の合間に場所を写した写真もある。

 

・写真を見る。いったい何を写してきたのだろうか。写したい気持ちは確かにあるが、気にいる写真はほとんどない。確かに自分がカメラを据え置きシャッター幕を開く判断をしているが、自分の感覚から遠いように思える。あるいは自分が考える「うまい」写真からはほど遠い。写真が「うまい」かそうでないかという判断は確かにあり、しかしその判断に明確な基準があるかどうかは難しい。しかしある程度まで、「うまい写真」、「写真を写すことがうまい人」は存在するようにも思う。

 

・あらためて、写真を写すことは難しく、写真を見ることも難しい。さらに写真について言葉を紡ぐことはもっと難しい。写真には情報は何もない。ただカメラの前の存在が定着されている。現実の光景を目にしている時とはまったく別の感覚を得る。静止した像から得る特有の感覚がある。すべての写真はおもしろい、と言ってみて、工夫を凝らすほどに、そのおもしろさから遠ざかる、という類の言説がある。それも一つの考えの道筋としては納得できる。

 

・昨日友人と話していて、ふと「救いを求めるようにして撮影された写真がある」と言われて腑に落ちた。積極的に創作しようとすることとは別の、写真を写したいと思う心の動きがあるとして、それは「救いを求めるよう」なことと言えるのか。円を描くように進みながらかつて考えたことと似たようなことを考え書いている。