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  映像研究

宿題

・202308201224。ここは中央図書館。持込PC席で書きはじめた。夏休みの宿題を抱えるような心持ちで生活している。宿題を先延ばしにしてきた夏。そういえば自分は、8月31日に絶望的な気持ちで深夜まで、あるいは、9月1日の朝まで宿題をする類の人間だった。

 

・写真について、写真家について文章を書いている。写真家は、芸術家は、文章で論じられるために制作していない。そのように、言葉にすると当然のことを考えながら、文章を書く手も思考もたびたび止まる。何も書くことはない。写真がある。言葉はなくとも写真を見ることができる。以上。そうして写真のことも、撮影のことも、考えることをやめて、ただカメラを持って、どこかへ出かけて、何かを見た方が良いのかもしれないと思う。「にもかかわらず、」と思うまで、そうして考えを遊ばせる。「にもかかわらず、」と思うまでには何年か経つかもしれない。

 

森山直太朗「夏の終わり」のメロディで「夏の疲れ」と歌う人。「夏の疲れ」は、暑さによる体力の消耗ないし寝不足による疲労の蓄積、そして暑さと冷房に交互に包まれることによる自律神経の失調、さらに個人的には夏の集中的な業務による神経の衰弱などの総合と言える。特に食の不調和にあらわれる。口と胃のニーズの違いという状況に思い至った。口は冷たいもの塩辛いものを求めているが、胃は温かいもの消化のしやすいものを求めている。いずれも間違いではない。胃の求めるものは確かに重要と思うが一方で口の求めるものを蔑ろにすることもできない。酸味は適度であれば両方のニーズに応えられる。本当だろうか。中断して。

 

・ふと息を吐けば、自分の身近な人たちの、あらゆる人間の力に圧倒されるような気持ちで、夏の終わりを生きている。自分が全力で一周しているあいだに二周する人、三周している人の存在を感じ、焦ることも忘れて立ち尽くすような感じがいつでもある。あるいは自転車で駅まで向かう道で、勢いよく育つ稲を、アスファルトまで広がる葉を目にして、自分が生きていることを忘れてただ見ている。それはもうそういうものだと思うことにして、せめて周囲の風景を納得いくまでよく見ることが自分の為すべきことと考える。

 

・18時に作業を終えて、図書館の喫茶コーナーはもう終わっているだろうかと覗けば、まだ営業していた。コーヒーセットは600円ですと言われてさっと千円札を出し、100円玉を足そうかと考えながら、ふとこれは自分のお金なのかと思った。自分が労働の対価として得たお金でコーヒーセットを注文している不思議。少なくとも自分にとってこれは巨大な不思議。たとえばこの不思議に立ち止まってもみても良い。

 

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