&

  映像研究

映画、映像、

・後から書いておく鑑賞の記録。業務の前に新宿ピカデリーで『怪物』。何度かタイミングが合わずようやく見ることができた。約2時間があっという間に過ぎる。映画が終わった後で呆然としながらパンフレットを購入する。歩きながら考えたい。見るでもなくショッピングビルを上下しながら1時間ほど。職場に直行して意識が途切れてしまうことが勿体無いと思う。

 

・自分が映画に期待しているものを仮に「シーン」とすれば、『怪物』には「シーン」を見ることがなかったと感じた。「シーン」とは、ある場所である人物が生きている、と感じることだが、そのように感じる間も無く映像が流れ去って行く。まずはその感じ方を、なぜだろうかと考えていた。ひとつには、演出として、鑑賞する側の意識が画面上の人物に馴染まないように設計されているから、つまり「人間」であることが疑われているから、ということが想定されたが、しかし、それだけとも思えない。

 

・もしもこの映画の速度が、現代の日々接する情報としての映像の速度に対応しているのであれば、それはきっと良いことなのだと思う。

 

・「『幸せ』とは何か」という問いがふいに浮かび上がるが、この映画の時間を通して、その問いに何かの切り口を見出すことは難しい。あるいはそのような「問い」という考え方自体が恣意的な論点に過ぎないのか。それを考え続けたい、などと言ってみて、それもあまりにも「正しい」かつ「安全な」感想でしかない。幸せは、一種抽象的な、光のような、美のような、何かに求めるしかないのだろうか。この違和感に留まってみたい。けれども同時に、どのような感想や考えも、この映画の核と映像の周囲にあり得る問題に届かない、とも思う。

 

・自分のペースで映画を見ることを続けようと、あらためてふと思う。その後の業務の記憶はない。