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  映像研究

金曜日の夜

・202306232153。帰宅する京王線で書けることを書いても良い。

 

・火曜日から金曜日まで業務が続いた。一般的な(?)基準に照らしてみれば、4日仕事が連続することは平時と言えるが、個別具体的な自分の「この」4日間に関しては、細かく考えて判断することが無数に積もるように発生し続けた結果、それが肉体的な疲労として実現した。気圧の影響もあるのか。からだが重く感じる。慣用句ではなく確かな体感として。

 

・言葉を聴くことについて考えたり、本を読んだり、読むべき本を調べたりしていると、気がつけば「ケア」という概念にたびたび遭遇するようになった。現代では、さまざまな思考が、学問や文化の諸領域が、その「ケア」という概念を必要としているようでもあると思えた。あるいはこれまで指し示されることのなかったものが名指されたということか。自分にとって、その語は、その概念は、どのような意味を持つだろうかと考えている2023年の6月。

 

・自分ならば、家族や、友人と、あるいは職場の同僚と、一緒に過ごしている時間に、ふと「ケア」と思うことがある。それはしかし平たく言って「励まし合っている」という感じが近しいから、わざわざそれを「ケア」と言う必要はないのか。互いが一定の力を持っていることを前提として、その力をよりよく生かすために、今私(私たち)は声を掛け合っているなと感じることがある。これはしかし壮年期における、限定的な意味での「ケア」と思える。

 

・そもそもこの「力」とは何かと考えることも増えた。自分が「力」を行使している事実に気がつき、その意味での(「権力」ともある程度まで重なる)力を使うことに気をつけるようになった。多くの人にとって、10代から20代とは、その意味での力の発揮や効果を試す時期なのだということも、理解できるようになった。現在のこの、自分の「力」とどのように付き合っていくのか、という論点もあり得る。

 

・そして老いるとは、力を手放し、力を引き渡し、力が消失し、力をもぎ取られるようにさえ感じながら、少しずつ無力に近づいていくことなのか、と考える。中断した。