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  映像研究

15年、写真のイメージについて

・休日の水曜日。

 

・8時に市立中央病院。数年気になっていた膨らみについて受診してみた。来月のMRIの予約を取る。その日中に何らかの検査をしたり検査を待ったりすることを見越してリュックに本を詰めてきたが開く間もなかった。10時に帰宅。

 

・市立体育館のトレーニングルームは5回目。まずはバイクを漕ぐ。15分で130kcalの運動をして汗をかく。その後各種の機械で遊ぶ。少しずつ機械を動かすことに慣れてきたことは変化ではある。自分の身体自体に明らかな変化は感じない。しかし続けてみたいと思える。

 

・食堂で前回と同じ定食(唐揚げ3個定食500円)を食べる。

 

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・再び帰宅して三度外出。寒かった昨日とは違う初夏らしいさわやかな気候だったから、シャツを着たい。Tシャツにサンリミットの真っ白いシャツを羽織りリゾルトのジーンズを履く。靴はウェストンのゴルフ。業務ではないからシャツも靴も汚れることを気にしなくてよい自由。もうすぐジーンズを履くことも暑いと感じる季節が来る。この季節に限った装い。

 

・原宿へ。10年以上前に職場で時々話す関係だった方から直接展示のお知らせをいただいた。会期最終日に駆け込めばご本人がいて近況を話す。近況よりも長い、この15年について話す。期せずして他にも二方懐かしい人が訪れたならば近くのカフェへビールを飲みに行く。2023年にこのような4人で乾杯する奇跡。思い返しても奇跡と思う。

 

・多くの知人が何かをつくっている、と書いてみてその「つくる」とは何か。作品と呼ばれる何かをつくることは「制作」と言う。制作は生きることと分かち難くある。もちろん制作しないこともあり得る。けれども制作することはその人自身とともにあると感じる。

 

・とりわけその制作することが描くことであるならば、その手の動きと事物としての痕跡は、確かな記録の一形式となる。写真とは、機械映像とは、まったく性質の異なる確かさがあるのだと考えた。その描写が記憶を元にしているにせよ、記憶とは別のイメージを刻む。押し出すように、あるいは、支持体に押し返されながらバランスするように。

 

・そのように、描写の結果生み出されたイメージを前にして、あるいは思い返しながら、あらためて、写真のイメージの機械的な確かさという性質を思う。ある場所に、ある時に、暗箱が置かれていた、その暗箱をだれかが操作した、という事実以上の何だろうか。写真を想起の手掛かりとして用いた描写のイメージをよく見たならば、写真のイメージそれ自体は、あまりにも透明、あまりにも空虚に思えた。

 

・この透明という感じ、空虚という感じから、写真について何事かを考えてみることもできる。そう考えてみるのも良い。それは写真を作品として見続けていた最中では思い至らないことであるかもしれない。中断して。