&

  映像研究

・202101071456。ここは自宅。デスク。4日間の仕事はじめを終えていくつかの対応に追われて呆然&自失のまま午前中が過ぎた。ここから始めなくてはいけない。いくつかの業務連絡と洗濯。景気づけにアイスクリームを食べてみた。「2400人」という数字がタイムラインに流れる。人の数が増える。検査の数も増えている。周囲でも検査の話題が走る。数という抽象化された情報から具体的な状況はわからない。わからない状況を想像しようとしたならば、意識を全て持っていかれるだろう。とはいえ全く関係のない情報を視聴するのも落ち着かない。

 

・先の見えない中で学生が展示のスケジュールなど話していることが希望に思える。あるいはその希望の持ち方でさえも楽観的に過ぎるだろうか。展示は具体的な時間と空間を占めると同時に、この現実とは異なる現実を開く。劇場も、舞台も、あるいは食事や会話も。

 

・学生と話していて気がつくこともある。「写真はかっこいい」という声を聞いた。そういう言葉を他者が口にしたのではなく、会話から、そのような信念を読み取って、何か感じ入るものがあった。「写真はかっこいい」と、そう思うことが既にして面白い。自分も「写真はかっこいい」と思っていたし、今も思っている。なぜ「写真はかっこいい」のか。「かっこいい写真」とそうでない写真があるのではなく、「写真はかっこいい」。しかしすべての写真がかっこいいわけではない。かっこよくない写真というのもある。もしも自分が写真を撮るならば、できる限り、その写真がかっこよくあってほしいと思う。しかし最終的に、その写真がかっこいいかどうかは、自分で判断することなのだろうか。

 

・写真を撮ることはかっこいいのだろうか、と考えれば、それは少し微妙である。写真を撮る「行為」とその行為する「身体」を想像する。写真を撮っているときに、自分の身体特に全身のありようはあまり意識されない。それでも今、あえて写真を撮るつまりファインダーを覗く自分自身の姿を想像するならば、恥の意識が浮かぶ。何かを覗いている人の後ろ姿にはある種の滑稽さがある。その滑稽さを打ち消すように攻撃的であるような、撮影する身体のイメージもあるが、さしあたりそれはまた別の問題だ。いずれにせよ写真を撮る身体は、滑稽なだけでもない。「覗く」のではなく「対峙している」身体のありようと言えるだろうか。端的にそれを「見る身体」と言っても良い。「見る身体」と「覗く身体」が異なるのは、暗箱ー穴(頭部の外在であり頭部自体でもある)を媒介することなく、「見る身体」が場所の一部であることによる、と言えるだろうか。と、とりとめなくメモのように書いてみる。

 

・どなたかがnoteに書いていた、2020年のアンビエント・ミュージックの記事で紹介されていたKMRUという人(?)の音楽が良いなと思って、部屋に焚くように流してみる。中断。

 


KMRU - Peel (full album)