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  映像研究

ふと気づく

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・あとから書いておく。この日の朝は3.5kmを30分。主に散歩であり早歩きだけれども中央公園のトラックの外周一周分だけ走った。歩くこととは違う走ること特有の疲労と快楽がある。少しずつ走ることを増やしてみようか。走るときに履いているもう20年ほど昔に購入して元々は水着だったムーンストーンショーツは腰の紐を失ってしまったからiPhoneをポケットに入れて走ると(ポケットを留めるマジックテープも剥がれてポケットがぐだぐだだから)ずりおちそうになる。このことを口実にPatagoniaなどで新しいランニング用のショーツを購入するのもどうだろうかとそういえば先週神田のPatagoniaに行ってみて、商品を手に取り、店員さんにスペックやディテールの説明を受け、もうこれは買うしかないな、と思いつつ、手にしたカタログには太字のゴシックで「私たちは本当に、皆様に買うことは減らしてほしいと思っています」と記されていて、そのことも考える。腰の紐をつければ良いのではないか、という案もあり得る。たとえばブリコラージュを得意技とする妻に相談したならばきっとそのように提案されるだろう。などと考えてとりあえず近日中に新宿のオカダヤに行ってみようと思った。

 

・午前中は昨日に続き職場の映像編集。ちょうど正午前に納品。昼食は二日続けてレトルトのカレー。中央図書館の喫茶コーナーの気分を演出している。午後は自分が学生の方の講義をオンラインで。オンラインでテクストを講読することの難しさと面白さ。その後少し休んでオンライン勉強会の予習と音楽を聴きながら英文のスキャン作業をひたすら。気付いたら夕方の良い時間になったから買い物へ。

 

・最寄の駅ビルのスーパーへ向かうエスカレーターに乗っているときに、ふと、自分が新学期以降、学生や同僚に対して話す感じが変わっているのは、パワーを顕現させないためではなかろうかと気づいた。そういえば3月4月にはさまざまな教育の場で各種のハラスメントが問題化されている、あるいは明るみに出ている状況について調べていたのだった。そのことは忘れたわけではないが、そのことと、自分の振る舞いを直接に結びつけて考えてはいなかったことが不思議だ。このように、「自分が何かを気にしていること」と「自分の振る舞いに変化があること」の関係に、あとから気づくということがよくあるかもしれない。完全に自分のためのメモとして。

 

・そうしてなぜか、同じ=直後の瞬間に、ふと、昼食の時間に武田砂鉄という人と平野啓一郎という人のトークYoutubeで聴いていた中で平野啓一郎が話していたことが、強く思い出される。それはこのような内容だった。「構造主義という思想が一般的に社会を説明する理論と解されて以降、社会関係や選択は『構成されたもの』である(でもある)という考えが前提とされているにもかかわらず、なぜ『自己責任』という考えが成立することができるのか」。自分の理解が介入しているから、言葉の通りではないが、そのようなまっとうな「『自己責任論』に対する批判」だった。この言葉が突然、夕方のスーパーマーケットで実感を持ってわかり、同時に「なぜいままで自分は『社会構成主義』のようなことと『自己責任論』をつなげて考えたことがなかったのだろうか」とも思う。あるいは「一方で『社会は構成されたものである』ことを前提としながらも『自己責任』を強調する者はそこにどのような論理を加えて整合性を保とうとするのだろう」とも考える。スーパーを一周しながら。