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  映像研究

重さ

・202101292012。帰宅する京王線は今日も同じ時間。朝から夜までの業務が数日続いて、ある精神の状態が持続している。ループものの映像のように繰り返される朝の支度と電車に乗る時間。その反復に無理がある(たとえば発する言葉にどうしても閃きを込めることができないなど)と感じたならば週末に辿り着いていた。例年の並走する仕事からするとそれでも今シーズンは比較的毎日早く帰宅しているのだけれども、それはリモートワーク(と久々に言葉にする違和感)が認められるようになったからで、明日と明後日は職場には行かず、家で作業を進める。

 

・確か昨日同僚からストレートに「老いを感じることがありますか?」と訊ねられて、そうですね、色々と、確かに、あるような、どうかな、と応えつつ、その後も考えている。一番に考えたことは、言葉を発する感じで、言葉が「重くなってくる」と感じる。それは、意味としてより重要なことを語るようになるということではなく、声の感じや、おそらく言葉を発する身体の様子が変化しているのではないかと思う。速度が少し遅くなり、間を取るようになり、声も低くなっているかもしれない。という計測可能な変化はある一つの側面に過ぎない。それ以外にも、語や接続詞を口にすることに慣れていることが関係しているのではないか。慣れていくことが滑らかな印象に繋がるのならば話は簡単なのだけれども、滑らかなだけでなく、重くなる。それは一体どういうことなのか。

 

・中断。

 

・帰宅すると友人から切手がたくさん貼られた封筒が届いていてなんだろうと封を開けるとお茶とお菓子が入っている。そして手紙。何かの記念日のようなことがあり品や言葉を贈られることはもちろん嬉しいが、何の記念日のようなこともなく贈られる品や言葉には別のよろこびがあった。手紙には近況と、生活の中での音楽について、書かれていた。そしてオンライン新年会の時に話題にしたミラクルひかるのプレイリストへの応答が書かれていた。世代、と思わず言いたくなる、レニー・クラヴィッツシャーデー荒井由実で接続する感じ。全4回素晴らしかった。そんなささやかな気持ちを共有する友人たちが、色々な場所に住んでいることを思い出す。

 

・夜にふと一人音楽を聴く人がいる。