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  映像研究

時差

・202011020932。カレンダーをめくるとシャルダン。10月が終わって11月になる。「11」という数字を見ると薄ら寒い。月の始まりに一歩遅れて週の始まり。準備と制作の日々が始まる。その制作は一般的な意味での作品制作というよりは、ただ何事かを明らかにするという程度の意味だけれども。今日は家中の布を洗い干しながら「メールを書く」「文章を読む」「業務の書類を作る」に加えて「おでんを煮る」「ダイソーでエアプランツ(モチーフ)購入」などのタスクがあった。何より午後はオンライン勉強会だった。今日できないことは明日やる。

 

・8月の業務の傍らで始めたリサーチが9月10月で爆発的に進み、しかし爆発したところでまだ入り口にも立っていない。2年ぶりくらいに論文を書く意識を働かせながら生活することを想像して震える。4ヶ月で書けるのだろうか。書き始めないとわからない。書けなければ書き続けるしかない。修士論文を書いていた2013年はこんな感じだっただろうか。自分の慶次をどうにか終えて日々をどうにか管理していた。どうにかなった。

 

・日々教育に関わる場所にいると、自分が他者から受ける力以上に自分が他者に向けているかもしれない力に敏感になる。あるいは敏感であらねば隙をつくように自分から何かが流れ出してしまうと考えながら、それでもきっと忘れている瞬間はあるのだろう。他者から見ていかに脈絡がなく思えようとも、当人にとってはそうでしかあり得なかったことはある。ことしかない。その「流れ」のようなものをもっとよく見ることができたなら。そうして見たものを自分の目の前に映し出すことができたならば(初期映画ではカメラと映写機は一体であったと言う)。その場合の回転速度の調整とは、どのような意識をはたらかせることに対応するのか。しないのか。比喩にも限界がある。

 

・ここは中央図書館ではない。中断。