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  映像研究

青い空

 
・201810291245。中央図書館に来た。約2週間ぶりに。時間は加速している。加速していない。加速しているように感じる。年末感。まだ漂っていない。10月後半から11月はその執行猶予のように思う。毎年労働や仕事あるいは活動をしている。天候が穏やかだからだろうか。それまでに抱えていたものを実際に表してみることに適切な季節であるように思える。収穫の秋。実りの秋。文化祭。力の実らせるためには何をしたら良いか。


・ずっと買ってしまおうかどうか迷っていた、清野賀子『THE SIGN OF LIFE』をインターネットで注文。一瞬で届いた。一瞬で届く郵便のシステムについて疑問に感じないこともないが、それはさておき、もっと早く注文をすればよかった。安い買い物ではない。プレミアムな値段がついた本を買うことは望ましくはない。しかし貴重で必要だと思ったならば買うべきなのだろうと考えた。それでいま、月曜日の休日の朝に、部屋でその写真集を捲って見ていた。音楽を消して。


・清野賀子の写真は「珍しい写真」ではない。以前にも思ったが、これらの写真と似たような写真は2000年前後の日本で目にすることが多かったように思う。そしていま、それらをあらためて見てみると、まったく同じ印象をまずは持つ。「じっくり見てみたらとんでもない写真でした」とか「2018年に見ることによって全く違った価値があり」とか全然思わない。むしろ、至極あたりまえの、誰でもが見られるような光景が、透明化された技術によって、写し取られている。驚きはない。写真自体にはっとさせるような「アイデア」は見て取ることがない。ただし思うことは「なぜ、この写真のように、誰もが現実を見つめないのか」という気持ちを持つ。その時自分はほとんど自然に「清野賀子の側」につこうとしているが、冒頭の今枝麻子という人のテキストは、そうした態度を持つことをクリアカットするような内容であったように思う。「啓蒙主義的な個とはちがうある種の個にたどりつくこと」。

「辺境」という言葉は、たんなる地理上の場所を越えたものだーそれは、ある個人が、世界に対して自分を表明するときにみずから選びとる位置のようなものであり、その個人の歴史や生活の場とは必ずしも重ならない、個人として、あるいは表現者としての立場のようなものなのだ。


・ここで書かれる「表現者」という語は狭い意味での「作家」という意味ではないだろう。むしろ「個人であること」を直視することにおいて、獲得することになる力能を指し示しているように思われる。だから、清野賀子の写真は圧倒的であると同時に当たり前の写真であると言いたい。その写真に映し出されるものを「眼差し」であるとして、眼差すとはどういうことなのかを探求するために清野賀子の写真を見る。この写真は必修なのだ。


・逆に言えば、なぜ誰もが「意味を示すこと」「意味が示されたものであることを示すこと(暴露)」という両翼の陣営のどこかにポジションを作り、そのポジションを固めるための自伝づくりのような制作を行うのだろうか(それはそもそも制作なのであろうか?)。清野賀子は「通路」という言葉を使っていたが、暴露と通路は全く別の態度であると思う。暴露をする人は、意味に対して反意味を立てることが道を作ることだと勘違いをしているが、それは重要な仕事でありえるものの(色々なレイヤーでそれぞれが戦いを続けるしかない)、通路は見出されない。なぜなら通路はもっと「当たり前」のところに開かれるのではないか。


・生の肯定、というような言葉は、誰が、どこで、どういう場で発するかによって、確かなものにも、とても空虚なスローガンにもなる。たとえば自分はそんな簡単なことを知るために、40年くらいが必要だった。愚鈍だと思うが仕方がない。通路とは、生きていることが個によってなされること、と言い換えられないか。もっと端的には「個として生きられること」。だから『THE SIGN OF LIFE』は「通路」と同じ意味であるように感じる。では「写真」という、この奇跡のようであり/同時に自然な現象であるように思える、機械/媒体と、この「通路」はどのような関係があるのか。「どのような関係」は適切ではなく、端的に言って、その本質的な結びつきをどうすれば提示できるのか。これは写真と生、写真と信、についての考察である。中断。