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  映像研究

つづいていくもの

 
・思わず時間に節目を見つけた。手でなでていると節目に触れる。そこで何かの質が変化しているように思われる箇所。そういう箇所を見定めて、その前とその後とを認識して、そのような節目があるのだということを知る。だけれども変化していないことはあるのだし、そしてまたあらゆることは変化している。「何も変わっていない/すべてが変わっている」。反復している。異なったことが反復している。


・気がつけば秋はもう既にきっと折り返していて、今年に関しては秋の秋らしさを感じ尽くす暇もなくもうすぐに寒くなるだろう。寒くなったら忙しくなって気がついたら冬の真ん中にいるに違いなかった。去年にもまして年末年始に「突入」していく感じがあって、その前で、嵐のまっただ中に飛び込んでいく前に、少しでも準備をする。知力、体力、時の運(アメリカ横断ウルトラクイズ)。言葉とイメージを準備する。


・結婚式と披露宴というものを準備する中でも、言葉とかイメージとかを扱うのだから、その中で自分が言葉やイメージを扱う時の癖のようなことがまた少しわかった。それらしいもの、テンプレート的なもの、常識的なこと、マナー的なもの、本に書いてあること、インターネットにある情報、昔からぼやっと思っていたこと、それらを適当に繋ぎ合わせた上で、不要なもの、大袈裟なこと、思っていないこと、偉そうなこと、あまりにも普通すぎること、形式的すぎること、おしゃれでないもの、を抜き去った時に残ったものが、辛うじて自分のスタイルと呼べる何かかもしれない。そうやって言葉やイメージは、具体的な声や物体となって姿を現す(あるいは残す)。


・そして/しかしこの発想からは「会」は生まれても「パーティー」は生まれない。「パーティー」はまた全然違う回路で生まれるのだなぁとつくづく思う。そしてまた自分以外の人が思いもよらないことを当たり前のこととして発想する。これは備忘録。


・秋になったならば、九州に引っ越して2年になる友達のウェブ上のアルバムに稲刈りの様子の写真があって、それが記録としてきちんと役割を果たしているがゆえの確かな力、あえて言うならば美しさを持っていることを思うにつけ、写真とか映像とかは何なのだろうと思う。「記録という機能美」のようなことも考える。それは例えば自分が家の周辺の雑木林を写していることとは、根本的に違うということがわかって、「羨ましいな」と思う反面、もはや羨ましいとかそういう話でもないくらいに、それはもう「そこに住んでいて、そこで生きているからこそ、見えるものや、残すことができるイメージがある」ということなのだから、それは良いのだと思った。そしてまた、都市の端に暮らす私たちには、また別の「見えるもの」や「残すべきイメージ」があるのだと思いたい。


・色々な場所で、色々な人にとっての、色々なことが、少しずつ良くなっていくように。