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  映像研究

その日は雪だった。

 
・その日は2月29日だった。うるう年のうるう日だった。明日から3月になって、そうしたら色々なことが変わる。変わることになった。10年以上に渡って通っている場所が、今とは違った場所になる。そのことを前にして、そのことを考えると、よくわからない。よくわからない気持ちになるし、言葉を発することが難しいし、そもそもその必要も無いのだし、何より今の気持ちに対してはただ沈黙することが適切な態度であるようにも思う。記さなくても良い事柄は沢山ある。しかしそれでも何かを記しておくのだとして。


・何かに「驚く」ことを何よりも意味のあることだと考えて、想像力の源として考えて、人と人とを繋ぎ合わせるきっかけにもなると考えてきたけれども、今のこの、全然別の種類の驚きは、何だろう。驚き続けながら、寂しいと思い続けながら、そして静かに何かが通り過ぎるのを待つようなこの時間は、何だろう。


・全く心情的なことだけで思うならば(最近は大抵が全く心情的なことばかりだった)、ほとんど偶然に出会った人たちが、或る場所に共に居て、共に居たならば、雑草が生えるように、勝手に蔦が伸びたり絡まったりするように、人と人との間には、言葉が交わされ、交わされた言葉がより合わさって、何かの印象が生まれて、そして育ってゆく。例えば色々なきっかけから、完全に偶然に目の前に知らない人が現れて、ぎこちなく探り合いながら質問をし合って、それでもその人との間に何か共通の話題が見つかったりすることは、とても嬉しい。そういう雑草生え放題の土壌のような場所があった。


・「別のかたちでまた会いましょう」と口にする。人は様々な場面で「別のかたち」と言う。「『別』の『かたち』」と今、その言葉を切り分けてみることによって、わかることがあるかな、と思ったけれども、どうだろう。わからない。映画のような物語の中でならば、それは「今のこの状況以外でならば、また楽しい気持ちで会うことができるのになぁ」というような意味であったりするけれども、どうだろう。


・そして夜にはどなたかが集まる機会を作ってくれた。どなたなのかわからないけれども、その集まりかたや集まる感じが、まるで今までの関係性のような、誰からともなく広がっていくようなものだったから、それを「良かった」と言葉にすることは、それはそれで少し躊躇しながらも、それでもやっぱり集まりの場に行って、何人かの人と話をすることが出来て本当に良かった。その日は雪だった。この気持ちを忘れずに持ち続けたまま3月になる。