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  映像研究

メモ(抵抗と生活・生活と協同)

 
ツイッターのタイムラインを眺めていたところ、著名なある分野の科学者の人のツイートのまとめが流れてきたのならば、そこには「書籍の電子化」についての考えが書かれていた。それは「書籍の電子化は不可避なのだから抵抗するのは無駄である」というような内容の10回程のつぶやきのまとめだったのだけれども、自分はその連続ツイートというものを読んで、その内容(書籍の電子化は不可避である/紙もデジタルも両方あるべきだ)にはある意味での納得をしつつも、しかし、その書き方というか、単純に、ある限られた分野の話題であるにしても「抵抗は無駄である」という言葉を発することが、圧倒的に恐い、というか、あまりにも自分と考えが違っていて、ちょっと「ぽかん」としてしまった。


・抵抗するかもしれない。しかしこの場合そもそも「抵抗すること」とはそもそもどういうことなのだろう?と考えてみる。例えば「書籍の電子化」に抵抗するとはどういうことなのか?それが書籍を販売する人であれば「積極的に電子化を進めない」ということになるのか。あるいはそれが世の中の仕組みに関わる人であるならば「電子書籍を積極的に流通させない」ということになるのか。あるいはまた書籍を購入する人であるならば「積極的に電子書籍を購入しない」ということまでもを含んであるのかどうなのか。あるいはそれは「何かを送り出す側」(という側があるのだとして)へ向けたメッセージとしての発言だったので、自分のような「何か(この場合は書籍)を受けとる側」(という側があるのだとして)には、関係のない発言だったのかどうなのか。


・抵抗するかもしれない。「抵抗すること」が「無駄である」、あるいは「ちまちましている」、そして「恥をかく」、ついには「余計なエネルギーを使う」と発言することのできる感覚が全く分からない。それは誰に何を伝えようとしているのか。それは誰に何を考えさせようとしているのか。それは誰に何を「考えないように」させているのか。


・抵抗するかもしれない。「抵抗すること」は、それが目的となることについては、なるべく注意深くあるべきで、多くの場合はそれを避けるべきだと思うけれども(抵抗の目的化)、しかし「抵抗すること」は、そもそも「何かを理解することができない」からそうするのであって、だから余計なエネルギー(よく考えると意味がわからない言葉だけれども)を使って、ちまちました人だと思われて(これもよく意味がわからない言葉だけれども)、そして最終的には、先に新しい何かを取り入れた人と同じ選択をして、あるいは考えを変えることになって恥かしい思いをすることになったとしても、自分自身が頭と身体で考えて、行動して、他の人に言われてそうするのではなくて、自分が本当に理解して、納得するまでは、どのような意味であれ、抵抗するしか無いじゃないかと思う。



・ところで「生協」について調べていた。数日前に山部の人たちと話をしていて「例えば今どんなことを勉強したいか」というような話題になったときに、自分は完全な思いつきだけれども「『生協』の成り立ちについて調べてみたい」と言ったのだった。夏休みの自由研究的な何かとして。それでそのことを思い出してウィキペディアで「生活協同組合」や「生活クラブ」についてざっと読んでいたりしてみていたところ、ふと鞄の中から取り出して「ああ買ったけれどもあまり読めていないな」と思っていた『atプラス11号』にちょうど、加藤好一という人の『若き岩根邦雄と生活クラブの「夢の時代」ー岩根邦雄著『生活クラブという生き方』刊行によせて』という文章が載っていてそれを読んでみた。というか多分この雑誌をパラパラしてみたときにこの記事が目についた(そして忘れていた)のだから、半分無意識に「生協ってそういえば何なんだっけ?」と思っていたのだと思う。


・私たちは、私たちの生活をより良くしていくために、一体どういうことができるのだろうか?と普通に考える。きっと誰もが誰かそのようなことを普通に考えているような今。例えば差し当たって、食べるものを中心とした生活に関わる品物を流通させるネットワークについて、その先例を学ぶことには多分意味があると思う。それを抵抗と考えるかどうかはまた別の事柄として。