&

  映像研究

変化と靴

 
・2月のある一週間が終わってまた別の一週間が過ぎる。考えられる限りにおいて凄まじく変化する一週間。というか今まで静かに進んでいた色々な変化が目に見える様になる一週間。偶然だ。偶然とは言えそういう偶然もあるのだなぁと思う。人の細胞はどれくらいの時間をかけてすっかり入れ替わるのか。わからないけれども色々な出来事が、並行して/ほとんど同時に/それぞれの速度で進行しているならば、そのことによって目に見える変化が訪れる。「訪れる」と思わず書きたくなってしまったのは、それがまるで、何かが流れてくるような、そして覆い被さってくるような、そして覆い被さってくるものによって身体ごとどこかへ運ばれるような、そして近くに在った人や空間がほどけるように離れていくような、そして気がついた時には知らない場所に辿り着くような気がしているからで、それがちょうど、2011年の3月11日からほとんど一年が経とうとしているような時ならば、そのようなタイミングのことだって考えてしまう。


・記録する言葉が抽象的になった。業務が比較的に忙しい期間になるとなぜ日記は抽象的になるのか。という問いに対する答えはあると同時にない(「在る」と同時に「無い」ということがあるように思う)。人の名前も場所の名前も起こったような出来事の詳細も飛び去って、ただ自分が考えていることの輪郭、あるいは自分が考える方法、その雰囲気、ぼんやりとした気持ち、についてのみ書いているのというのもどうなのか。そもそもその場合には、備忘録が「忘れないようにする記録」であることの役割を果たすことができるのか。などなど。自己言及的であることを考える。自己言及的であることは全くトレンディではないけれども、自己言及すら飲み込むような、ある流れの中に飛び込み続けることは割とトレンディかもしれない。などなど。


・変化について考えるのならば、例えば「お洒落は足下から」という言葉を思い出して足下を、靴を見ながら靴について考える。そういえば数日前にソールを張り替える修理に出していたレッド・ウィングのアイリッシュ・セッターという靴が戻ってきたのだった。すっかり履きこまれたようなアッパーの革の部分と真っ白で新品のソール。そのコントラストが新しくて面白い。高校生の時に購入したその靴はそうだからかれこれ15年近く履いていることになるけれども(間の5年くらいはほとんど履いていなかった)、今の状態は、革は15年目、ソールは1年目。いつか、その14年の差が気にならないくらいに履き続けるのか。子どもから見ると「おじいちゃん」と「ひいおじいちゃん」の区別をさして意識しないように(この例は適当)……と考えてしかし、この場合はむしろ、ソールはきっとまた張り替えることになるのだろうから、むしろ「革は25年目/ソールは1年目」「革は44年目/ソールは1年目」「革は65年/ソールは1年目」……とかになっていくのか。どうなのか。あるいは「革はひいおじいちゃん/ソールは俺」とかになることはないんだろうな。いや、無いとは言い切れない(「無い」とは言い切れないことがほとんどだ)。


・そうしてまた靴を見て、靴について考えることから、家の下駄箱の、その中に仕舞い込んである靴や、その中には入りきらずちょっと外に出ている靴について考える。というかその靴について考えることで自分の変化について考える。茶色の革の靴ばっかりだった。「レッド・ウィングのアイリッシュ・セッター」「ダナーの登山靴」「(この数年で唯一購入した)EASTLANDのモカシン・ブーツ」「to&coのウィング・チップのシューズ」「(夏に履く)ビルケンシュトックのサンダル」「(ずっと履いてる)アディダスの『アディデスマン』というスニーカー」という靴は、よく履くから下駄箱の外に出しているのだけれども、すべて茶色の革の靴なのだった。蛍光の、あるいは色とりどりの「マルチ・カラー」のスニーカーを、次から次へと探しては、次から次へと買い続けていた2000年前後の感覚というものがかつて自分にはあって、今もまだその感覚を覚えていつつも、今はもうその感覚は違ったものになっている。例えばそれが変化ということなのか、どうなのか。夏になると時々履くけれども、蛍光の靴も。


・時間を自由に飛び越えることが出来ないからこそ、このようなサイエンス・フィクショナルな仮説を立ててみることは時々面白い。「タイムマシン的な何かによって10年前の自分に現在のことを知らせる」という設定で届けられるメッセージがある。「あなたは今は蛍光のスニーカーを沢山買ったりすることが楽しくて仕方がないと思いますが、10年後にはそれらの靴はあまり履かなくなって、その代わりに限られた数の茶色の革の靴をソールを張り替えたりしながら履いているでしょう」という言葉が届けられたとしたならば、それはどうなのか。「そういうものなのか。」と思うのか。


・そしてまた「タイムマシン的な何かによって1年前の自分に現在のことを知らせる」という設定で届けられるメッセージ、というものがあったならば、それはどのようになるだろう?2011年2月の自分へ向けて。