&

  映像研究

曇りの合間に晴れたりもする期間の備忘録

 
・夏が進行しながら夏の夏らしい瞬間が継続しながら限りなく直線に近い放物線が伸びていくのを想像しながら7月。最高気温があまり最高でもない日々の備忘録。最高と言えばそれは大体36℃くらいを示していると思う(私見です)のだけれども、その最高さは台風の回転とともにぼんやりと拡散してしまったのか。どうなのか。上空の具合を想像する。



・日々新しいことを思いつく。思いつくことのいくつかは現実に実行されるし、同時にそのほとんどは現実には実行されない。そして思いもよらないこと共は絶えず訪ねてくる。新しいことに共通する新しさをイメージする。はっとすることに共通する驚きをイメージする。そのようにして、今までと違うようでいて同じようでもある抽象度の高い夏。



・ここ最近に職場の同僚と話していたのは「ROE ETHRIDGE(ロウ・エスリッジ)」という写真家についてで、その写真家が写真を撮影する/選択する/構成する/作品とする、ことにどういう原理があるのか考えてみているときに「ドゥルーズ」という人のことを思いついてみたのだった。それで同僚から、参考に、とエスリッジという写真家のインタビュー記事が送られてきた。そうか。それを読んで「なるほど」と思いつつも「分裂(スキゾ)」という概念にあまりピンとこない気もしないでもない。むしろ別の本に書いてあって個人的にピンときた「生成」という概念はどうだろうかと考えてみる。それは複数のイメージが並べられて関係づけられるときに生まれる(生まれつづける)感覚のようなもの、を言い当てる言葉としてわりと近いような気がする。



・そしてまた「生成」であれ「分裂」であれ、それが「現実をより現実らしく(それがリアリティということなのかどうなのか)捉え直す」ための鍵となるような概念であるならば、それは当たり前だけれども、写真、とか、視覚、とかに限定された事柄でもない、もっと別の事柄を考えてみるときにも役に立ったりするのではないか、というようなことも考えている。


(略)「現実」ということは分裂してる、スキゾだってことだ。正直言うと、僕は「写真を芸術にすること」も「芸術を写真にすること」もできなかった。だから小さなイメージのグループをいくつもつくって、ギャラリーに持って行くことを考えた。そうすれば、何か偶然の事故が起こるかもしれないと思った。


スキゾを作品で取り扱うことに成功してるアーティストはほとんどいない。でも写真はぴったりのツールだった。とはいえ、僕はドゥルーズガタリも読み終わってないけどね。僕は「フーガ」という考え方が好きだ。僕の写真の組み立て方だ。複数の声。変奏。だから鏡じゃなくて窓を撮っているんだろうね。思いがけなく、あらわれてくるもの。ほかのプロジェクトからはみ出たもの。それを要約するような「写真」が生まれるかもしれないってね。実際やってみるとイメージ群を束ねるための接続部分が生まれたりする。僕のこういうやり方を、ただ境界線を曖昧にするだけと言う人もいるけど、僕はそうは思わない。僕はイメージに奉仕して働いているんだ。僕の父親が電話会社で働いてたみたいにね。

・ある夏の夕方。国立から西荻窪に引っ越した友達の新居へ行く。数名で押しかける。予想通り予想以上にハード・コアな部屋のディテールにすっかり酔っぱらった状態で駅前で蕎麦を食べて解散。毎年の夏が持っている遠心力と重ね合わせるようにして、何かの力で移動しようとしている人がいる。