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  映像研究

2020年の夏の真ん中

・202008071519。早起きして朝からデスクで作業をする。数日前からふと思い出して読み直している、前田英樹小津安二郎の家-持続と浸透』を手にして読み進める。途中でドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』についての記述あり、久しぶりに本棚から引き抜き表紙を開くと扉には職場の同僚からの誕生日のメッセージが寄せ書きされている。この寄せ書きの存在を忘れて本を開き読み見るたびに何度でも驚く。本の内容にそぐわないような愉快な寄せ書きであることも面白いが、その寄せ書きが自分のその後の進む道に何らかの影響を与えたことを思うと不思議な気持ちになる。それは2011年の誕生日で、同僚の発案で「読んだほうがよいですよ」ということにより選ばれた品だったらしいのだが、それを間に受けたかどうなのか、半年後に自分はその『シネマ2 時間イメージ』の訳者を訪ねて、学部を卒業して数年経っていたにも関わらず、修士課程に入学してしまった。贈り物の恐ろしさについての一つの事例ではある。そうしてそれ以前もそれ以後も、映像について考えることが自分とともにある。あるいは映像について考えることは、こうして呪いのように、自分が生きていることに張り付いていると感じる。

 

・そして今日は2020年の誕生日だった。そのメッセージから9年の今日だということをまったく意識せず、その本を引き抜く。何のスピリチュアルな連想もなく、変わらず似たことを、ほんの少しだけ深く、考え続けていることを面白く思い、またそのような状態を継続できていることについては、考えうる限りの周囲の人間への感謝(恐縮)しかない。ありがとうございます。作業中にメッセージを送ってくれた山部の友人たちもまた、自分に向けてつねに、問い、笑い、その他の感情を、正直に、正確に投げてくれる。その関係はいつからか「健闘を称え合う」という感じがしっくりくるようになった。いまこの時間に何に直面しているのか、その具体的な事象の細部までは理解していないが、生き生きと生きている、ということだけは確信できる。困難に対して、創造的に思考しているのだろう。そしてどのようなときにも、つねに、山の存在が傍らにある。そのような人の存在に向けて、ありがとうとともに、念を送る午前。

 

・今日の東京は36℃。家族の腰痛問題により、ダイニングをちゃぶ台的な高さから止まり木的な高さに変更してみた昨日。見ている光景が変わり、自分の姿勢も変わり、別の場所のように新鮮な気持ちで、朝はパンを、昼はラーメンを食べる備忘録。夜は音楽をかけてキャンプサイトのように過ごしたい。焚き火だけが足りない。

 

・引き続き写真について考えている。この休暇の間に何らかの手がかり、それは具体的な対象となる作品あるいは写真論と出会いたいと思いつつリサーチを続ける。昨日のオンライン勉強会でI君が言っていた、同じ写真集でも版によって印刷に違いがあり、その違いによって写真を別様に見ることがある、という話は自分にとっては衝撃的な考えだった。確かに展示された写真を見るときには、その場所に展示されなかった別の写真と比較することを想像するような考えがはたらくことはあるのだし、かつて自分が写真のプリントをしていたときにはまさにそのような自分の「見る=判断する」能力とともに作業があったはずなのだし、昨年末に自分が撮影した写真をラボに頼んで引き伸ばしたときにも同じような考えが過ぎった。しかし、写真集を開くときの自分の「見ること」の中に「解像度」というようなこととは全く違う「質」という意識はない。その話を興味深く聞き、思わず例として挙げられた、スティーブン・ショアの写真集をその場で購入してしまった。通販番組に完全に説得されてしまう人のような購入の仕方。

 

・数日前に集中的に見たジュリア・マーガレット・キャメロンにおいて気になったのは露光時間だった。通常考えられない長時間の露光で人物を撮影することによって、外観以上の(あるいは外観とは別の)何かを映し出そうとした点には興味を惹かれる。『写真家・福原信三の初心 1883-1948』で福原信三という写真家の言葉とイメージを読むことからは、また別のことを考える。「光」ということを考えながら写真に向かった結果、芸術ということとはほとんど関係のないこととして、写真のイメージが現れるということがある。オーガナイザーあるいはプロデューサーとしての福原信三という人は確かに「写真芸術」というコンセプトを立てたかもしれないが、撮影されたイメージはそうした姿勢とは異なる指向を示しているようにも思えるけれどもどうだろうか。ボードリヤールを基点として考えていた写真についての考えに、どのような線を引けるか。

 

・文章を書いていると時間が消える。今日が2020年の夏の真ん中だと気づいた。気づけばもうすぐ夕方。